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2012/02/29

人類の軌跡その318:絶対主義の終焉①

<絶対主義の終焉:イギリスその①>

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◎ステュアート朝の成立

 イギリス国王エリザベス1世は1603年、崩御しました。
独身なので、実子は事実居ませんでした。
イギリス王室に後継者問題が発生、イギリス議会はエリザベス1世と家系的血縁の在る候補者を選定し、最終的にスコットランド王が国王に選定されました。

 文章の中でイギリスと表現していますが、正確にはイングランドを意味しています。
現在、イギリスの正確な名称は「グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)」略してユナイテッド・キングダム(United Kingdom、UK)であり、連合王国は、複数の王国が一緒に連合して成立した王国を意味し、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドが、現在日本人の思い浮かべるイギリス全体の姿なのです。
 
 エリザベス1世統治時代のイングランドは、現在の大ブリテン島の南半分が版図で、北部はスコットランドでした。
スコットランド王ジェームズ6世はイギリス議会からの要請を承諾し、イギリス国王ジェームズ1世と成りました。
この王朝がステュアート朝で、ジェームズ1世はイギリス(イングランド)国王に即位しますが、スコットランド王を退位する訳では無く、一人で二ヵ国の王位を兼任します。
ジェームズ1世はイギリス国王として即位する為、スコットランドからイングランドに向かい、その国境には、イギリス議会の代表が新国王を出迎え、イングランド領に入ったジェームズ1世は議会代表と一緒にロンドンに向かいました。
 
 ロンドンで即位したジェームズ1世は、王権神授説を信奉して、イギリス議会を軽視しました。
ジェームズ1世の言葉を借りれば「聖書の中で王は神と呼ばれており、かくして彼等の権力は神の権力にも例えられる。(王は)臣下全員に対し、あらゆる裁き手で在り、しかも神以外の何者にも責任を負わない。」と言い残しています。
又、ジェームズ1世はイギリス国教会を国民に強制し、ピューリタンを圧迫しました。
商工業者やジェントリにはピューリタンが多く、彼等は議会でも多数の議席を確保していた為、王と議会の関係は険悪な状況に陥りました。

 ジェームズ1世崩御の後、その息子のチャールズ1世(在位1625年~49年)が即位しますが、チャールズ1世も父親同様の思想を持ち、議会に対する強権発動は多数に及び、ピューリタンに対する弾圧は激しさを増し、ピューリタンの布教を厳しく禁止し、反抗者の処罰、国民の権利、財産を無視する様々な行為が続いたのでした。

 議会は国王に対して、議会と国民の権利を尊重する様に要請書を提出します。
今日「権利の請願」(1628年)と呼ばれる要請書で、内容は議会の承認無しに課税を行わない事、法律を無視して勝手に国民を逮捕しない事を王に確認させました。
しかし、チャールズ1世は、絶対主義時代の国王で在る為、議会の要請を履行する事無く、1629年国王は議会を解散、以後11年間に及ぶ専制政治を遂行します。
この期間、チャールズ1世による、イギリス国教会強制政策は、スコットランドの強烈な反発を招き、国王自ら軍隊を率いて反乱鎮圧に向かうものの、反乱軍優勢のまま退却せざるを得ず、その後も、チャールズ1世は戦費不足に苦戦を強いられ、最後にはスコットランド軍が国境線を超えてイングランドに侵攻、国王は賠償金を支払い降伏する事に成りました。

続く・・・


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