<絶対主義の終焉:イギリスその③>
◎共和政時代のクロムウェルの政策1、1649年アイルランド侵略
イギリスは、王党派の地盤で在ったアイルランドに軍隊を派遣し、この島を占領します。
征服されたアイルランドの人口は半減し、クロムウェルはアイルランド人の土地を徹底的に没収しました。
この結果、耕地の三分の二はイギリス軍将校と、戦費を出資したロンドン商人の所有物と成り、アイルランドの農民は小作人として徹底的に搾取され、飢餓に見舞われた生活を送ります。
これ以後、アイルランドは20世紀に至る迄イギリスの植民地と成りました。
2、1651年航海法制定
イギリスの海外貿易上最大の競争相手、オランダに打撃を与え、イギリスの産業を保護する為の法律でした。オランダ船籍の貿易船が、イギリスとその植民地の港への寄港を拒否します。
この法律が原因となりオランダとの間に第一次英蘭戦争(1652年~54年)が勃発、数度の海戦が発生しますが、勝敗はつかず、講和条約はイギリス側に有利に結ばれました。
3、1653年クロムウェル護国卿に就任
護国卿の地位に関する歴史的解釈について、クロムウェルは本来国王の地位を望みましたが、軍部の反発を招き護国卿の地位に甘んじたとも云われ、反対に、国王の地位は望みませんでしたが、イギリス国民は国王同様の存在を望んだ結果、国民の要望に応えたとも云われています。
クロムウェルは1658年に死去します。
終身護国卿として独裁政治を継続し、晩年にはその政治に対して不満を持つ勢力も存在していました。
クロムウェルの政治は、厳格でしかも熱心なピューリタン出身の為、酒や賭事は禁止され、庶民には楽しみの少ない時代と思われます。
クロムウェル死後、息子のリチャードが護国卿の地位を継承すると民衆の不満が爆発、リチャードには父親程政治的手腕が無く、政治運営は窮地と成り、翌年には政権を放棄しました。
政権混乱の中、議会は王政復活を決定し、ピューリタン革命で処刑されたチャールズ1世の息子を、チャールズ2世としてイギリス国王に選定しました。
チャールズ2世は父親1世が処刑された後、フランス等ヨーロッパ各地を流転の生活を余儀なくされていました。
1660年、チャールズ2世が即位し、王政復古が成し遂げられ、ステュアート朝が復活します。
続く・・・
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