2012/03/03

人類の軌跡その321:絶対主義の終焉④

<絶対主義の終焉:イギリスその④>

ウイリアム3世_convert_20120303211217
ウィリアム3世

◎王政復古と名誉革命

 チャールズ2世は即位にあたり、ピューリタン革命中の人々の言動を罪に問わない事、ピューリタンの信仰も認める事を約束し、更に革命中に発布された政策も一部は認めます。
航海法は、チャールズ2世即位後も実施され、ステュアート朝は復活しましたが、政策の総てが革命前に戻った訳では在りませんでした。
チャールズ2世は最初、議会との融和を図りますが、時間の経過と共に絶対主義的な思想が復活してきます。同時期のフランスはブルボン朝ルイ14世が、絶対主義の典型的権力を掌握していました。

 更にチャールズ2世は、カトリック信者を官僚に任命しますが、イギリス国王はイギリス国教会首長の立場に在り、チャールズ2世は隠れたカトリック信者の為、カトリックの官僚を利用して専制政治の復活を目論見ます。
一方議会は1673年に「審査法(審査律)」を制定し、イギリス国教会信者以外の官職登用を否定し、更に、1679年、「人身保護法(人身保護律)」を制定し、国王による不当逮捕と投獄を禁じ、議会と国王の対立は徐々に高まりました。

 チャールズ2世崩御の後、弟のジェームズ2世が即位しますが、彼も政治的信条は絶対主義でした。
しかも、ジェームズ2世はカトリックである事を公言していた為、イギリス国教会の首長として相応しい人物では無く、議会との不協和音は高まるばかりでした。
しかし、議会は沈黙を守ります。
ジェームズ2世の即位は52歳で、後継者たる息子は存在せず、年齢的に王子が誕生する可能性は極めて少ないと考えられていましたが、そのジェームズ2世に息子が誕生した事から、議会も動き始めました。

 議会はジェームズ2世を追放し、新王を選定する協議を開始した矢先に彼は亡命し、国王自ら国事を放棄した事から、議会は一滴の血を流す事も無く革命に成功し、これを名誉革命と呼称します(1688年)。
流血が無かった事が名誉であり、国王を処刑した先のピューリタン革命は名誉では無く、現在のイギリス人も余り触れたくない歴史的事件でした。

 ジェームズ2世に代わって、イギリス国王として招かれた人物は、オランダ総督ウィレムとその妻メアリでした。
メアリはジェームズ2世の娘で、二人はイギリス国王として招かれるにあたり、イギリス議会の要請を受け入れ、議会の権利、伝統的な国民の権利等を尊重する宣言を布告します。
これを「権利の章典」(1689年)と呼称し、成文憲法の存在しないイギリスで、国民の権利を定めた法律として現在でも重要な地位に在ります。

 ウィレムとメアリ夫妻はイギリス国王として、ウィリアム3世(在位1689年~1702年)、メアリ2世(在位1689年~94年)と成り、二人は同時に国王と成り共同統治が開始されました。
名誉革命以後、イギリス国王は政治上の主導権を発動する事無く、基本的に議会に国政を委ねました。

 1714年ステュアート朝は断絶、ドイツのハノーヴァー選定侯から遠縁の在る貴族が、イギリス国王として招かれました。
ハノーヴァー朝ジョージ1世の即位を迎えますが、この人物は生粋のドイツ人の為、英語は殆ど理解出来ず、殆どの国政は、大臣閣僚達に任せ、本人はドイツに住み、殆どイギリスでは生活せず、一方大臣閣僚達は国王に国家の運営を任された重責の為、一切の国政行為を担わざるを得ず、イギリスでは責任内閣制が発展し、イギリス国王の特徴として有名な「君臨すれども統治せず」の始まりでした。

 17世紀末、イギリスと他のヨーロッパ諸国を比較すると、フランスはブルボン朝、絶対主義の全盛期です。
ドイツやロシアは、絶対主義以前の段階で、国王が何とか貴族・諸侯の力を抑えたいと悪戦苦闘していました。
イギリスは、絶対主義の時代が終焉を迎え、国王の権力を制御出来る程に議会が力を持っていました。
議会運営の中心を担う階級が、海外貿易や産業を支配している市民階級で、イギリスはオランダと並んでいち早く、市民階級が権力を握る様に成った国でした。

絶対主義の終焉:イギリス終わり・・・

スポンサーサイト

コメント

非公開コメント