2012/03/06

人類の軌跡その323:フランスの絶対主義②

<フランスの絶対主義その②>

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ルイ14世(8歳)

◎フランスの絶対主義

 1598年、アンリ4世は、ユグノー戦争を解決する為に、「ナントの勅令」を発布し、カトリック、ユグノーの両派に信仰の自由を認めたのでした。
現在では、信仰の自由は一部の国家地域を除いて国民の権利ですが、当時はカトリックの国が国民に違う宗派の信仰を認める事自体、大変異例の事でした。

 信仰の自由が認められ、ユグノー勢力もアンリ4世を国王として認め、ユグノー戦争はようやく終わり、この内乱の結果フランスの大諸侯の力が衰えた為、アンリ4世は後に続くブルボン朝の安定期を迎える基礎を構築し、絶対主義実現の為の条件が揃っていきます。

アンリ4世の後継者がルイ13世(在位1610年~43年)で在り、彼を補佐した宰相がリシュリューです。
リシュリューは、フランスを発展させる為に誠心誠意努力した人物で「余の第一の目標は国王の尊厳であり、第二は王国の盛大である」とは有名な言葉です。
ドイツで起きた三十年戦争にも介入し、領土を拡大する等、この時代にフランスはヨーロッパの政治に大きな影響力を持つ国家に成長します。

 ルイ13世を継承した国王がルイ14世(在位1643年~1715年)で彼の治世に於いて、フランス絶対主義は絶頂期を迎えました。
ルイ14世は、僅か5歳で即位した為、宰相マザランが執政として政治を司りました。
マザランもリシュリューと同様、フランス王国と王権の発展を目指し、王権を強化する為に貴族階級の既得権を停止する事を画策し、フロンドの乱(1648年~53年)が起こります。
一時期反乱軍がパリを占領し、マザランは幼いルイ14世を連れてパリから逃れますが、最終的に反乱は鎮圧され、結果的に中央集権化が進行しました。
1661年、成年に達したルイ14世の親政が開始されます。

◎ルイ14世の統治

1、経済政策

コルベールを大蔵大臣に任命し、重商主義政策を展開、その活動が殆ど無くなっていたフランス東インド会社を再建し、海外貿易に乗り出しました。

2、文化奨励

現在イメージとして思い浮かべる、ヨーロッパの王侯貴族の礼儀作法や生活態度等を整備した人物がルイ14世です。
宮廷貴族の礼儀作法、服装等、この時代に確立したものが大変多く存在します。

3、ヴェルサイユ宮殿の造営

パリから南西約20キロ離れた場所に、大規模な宮殿を造営しました。
宮殿には国王、貴族、官僚など5000人以上が居住し、宮殿の周囲の付属の建物には、兵士や召使い等1万5000人余りの人間が住んでいたと云います。
宮殿なのですが、国王の住居だけでなく政府機能もここに移動したのでした。
巨大な宮殿を造営した国王ルイ14世の威光は高まり、後にヴェルサイユ宮殿を真似した宮殿が世界中で造られ、日本の赤坂離宮、現在の迎賓館もヴェルサイユ宮殿をまねたものです。
そして、フランスの貴族達は、嘗ての様に王権に反抗するだけの力は存在せず、国王から年金を貰って暮らしている者も居る状況でした。

続く・・・

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