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2012/03/15

人類の軌跡その330:中世ヨーロッパの軍事国家①

<プロイセンの発展その①>

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プロイセン軍の突撃

◎プロイセン

 プロイセンは、1618年ブランデンブルグ辺境伯領とドイツ騎士団領の領土が合体して形作られた国です。
支配者はホーエンツォレルン家、宗教は新教、プロイセンは飛び地で、大きく東と西に分かれています。
東側の領土はポーランド、西の領土は神聖ローマ帝国の領内でした。
プロイセン成立時の正式国名はプロイセン公国です。
ここで公国は王国よりも下位に位置する国家ですが、後にプロイセンは国力を付け、スペイン継承戦争時では、オーストリアを支援しました。
その見返りとして、1701年王国と成り、正式にプロイセン「王国」が誕生しました。
オーストリアは神聖ローマ帝国皇帝として、諸侯の位に関与できる権限を有していたのです

 以後、プロイセン王国は更に発展し、最初に発展の基礎を成した国王がフリードリヒ・ヴィルヘルム1世(在位1713年~40年)、別名「兵隊王」と呼ばれています。
軍隊を強化して軍国主義的国家建設を推進し、プロイセン軍を強大化することに力を注ぎます。
宮殿の庭園を練兵場にし、常備軍を整備し、徴兵制で農民を集めて軍隊を組織しました。
兵士が不足する時は、徴兵係が農村を廻り、体格の立派な若い農夫を無理矢理、兵隊に編入します。
8万人の常備軍を編成しますが、当時プロイセンの人口が200万人程度なので、人口の4%に匹敵します。

 徴兵された兵士を、命令に服従させる為、プロイセン軍は厳罰主義を取入ました。
強制的に徴兵された兵士達は、脱走して故郷に帰りたいと考えても脱走の罰が、また厳しく「列間鞭打ち」と名づけられた刑罰が在り、脱走した兵士は、裸にされて自分の部隊の兵士達が、二列に並んでいる真ん中を駆け抜け、部隊の兵士達は、各々鞭を持ち、裸で走ってくる脱走兵を打つ事に成ります。
同時期、イギリスやフランスでは兵士に対する鞭打ちは禁止されており、ある意味では遅れた国でした。
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、国力的に可也の無理を行い、強力な軍隊を育て、プロイセンをヨーロッパの一流国に押し上げようとしたのでした。

続く・・・


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コメント

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No title

はじめまして。気になったのですがプロイセン公国の成立は、当時のポーランド王ジグムント1世老王の妹がその嫁ぎ先のホーエンツォレルン家で産んだ息子で当時のドイツ騎士団長でもあったアルブレヒトがルーテル派に改宗してドイツ騎士団を追い出したうえ伯父のジグムント1世に臣従の誓いを立て、プロイセンがポーランド王国を事実上の盟主とする国家連合のうちの世俗国家の1つとして公式に認められた1525年の時点ではないでしょうか?

1618年はアルブレヒトの系統が絶えたので同じホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯がプロイセン公位を継いだためにプロイセン公国がブランデンブルク選帝侯領といわゆる人的同君連合になった年だと思いますが。

また、プロイセン公国がポーランドから正式に独立したのはそのまたさらに後の1657年になります。
それまでプロイセン公国はあくまでワルシャワを総首都とするポーランド国家連合(当時はいわゆるポーランド・リトアニア「共和国」)の1加盟国でありました。
「共和国」は現在の欧州連合(EU)と似た構成でありまして、プロイセン公国には大幅な自治権が与えられていましたが、ワルシャワの「共和国議会」(セイムと呼ばれる)にはプロイセン公国の各地方で選出された代議員ももちろんいました。この点でも欧州連合と似ています。
(プロイセン選出の「ポーランド王国議会議員」はドイツ騎士団領時代から存在していました。)
すなわち近代ドイツの核であるプロイセン国家は「共和国」と呼ばれたポーランド国家連合から生まれた国家です。