2012/03/16

人類の軌跡その331:中世ヨーロッパの軍事国家②

<プロイセンの発展その②>

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サンスーシー宮殿でのフリードリッヒ2世によるフルートコンサート

◎啓蒙専制君主

 フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の後継者は、息子のフリードリヒ2世(在位1740年~86年)で、プロイセンを絶対主義国家として完成させ、フリードリヒ大王とも呼ばれます。

 彼は幼少の頃から、父親のヴィルヘルム1世との関係が、芳しく在りませんでした。 
息子のフリードリヒ2世は兵隊王ヴィルヘルム1世とは、正反対の趣味を持ち、フランスから詩集や小説を取り寄せて読み、音楽を好みフルートを自分で演奏しました。
父親は将来の国王の姿を軟弱と見たのか、フリードリヒ2世の嗜好をことごとく否定します。
18歳の時、とうとうフリードリヒ2世は家出を決意し、フランスに向かいます。
息子が国を失踪した事を知り、父で在るヴィルヘルム1世は烈火の如く怒り、家出は軍隊で例えれば、脱走と同じで、絶対に許すことは出来ない重罪ですから、追っ手を差し向け、ベルリンに連れ戻されますが、一緒に逃亡した友人は、フリードリヒ2世の目の前で処刑されてしまいます。

皇太子であるフリードリヒ2世の処刑は免れましたが、この事件を発端に、彼は引きこもりがちな陰鬱な人間になりました。
やがて、父王が亡くなり、彼がプロイセン王と成った時には、それまでのヨーロッパに存在しなかった形の国王になっていました。

 フリードリヒ2世は、若い頃から書物を読み、プロイセンがフランス等の先進ヨーロッパ諸国と比較して、制度や文化の面で遅れていることを十分理解していましたから、フランスの先進思想を積極的に取り入れたのです。
当時、フランスでは絶対主義の絶頂期ですが、絶対主義に批判的な思想も生まれていました。
迷信や偏見を打ち破り、合理的、理性的に社会を改革しようと云う啓蒙思想です。
 
 本来、啓蒙思想は絶対主義を批判する思想で、両立しない思想なのですが、フリードリヒ2世は二つの思想を同時に取り入れます。
専制的かつ絶対主義的な政治を遂行しますが、その中で不合理なものを総て排除していく、プロイセンがフランス等の先進国に追いつくには、この方法が一番有効でした。
当時ヨーロッパの思想界で、一番持てはやされていたフランスの啓蒙思想家ヴォルテールとフリードリヒ2世は、文通を行いますが、最後にはヴォルテールをベルリンに呼び寄せ、宮殿で衣食住を供にするのです。

 フリードリヒ2世の言葉として有名なのが「朕は国家第一の僕(しもべ)である」、ルイ14世の「朕は国家である」に比較すると、謙った表現ですが、啓蒙思想の影響を受けた表現です。

続く・・・

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