人類の軌跡その332:中世ヨーロッパの軍事国家③
<プロイセンの発展その③>

フリードリッヒ2世
◎オーストリア継承戦争
フリードリヒ2世は二度の戦争でプロイセンをヨーロッパの一流国に押し上げる事に成功しました。
その一つがオーストリア継承戦争(1740年~48年)で、この年、オーストリア国王にマリア・テレジアが即位しました。
前王カール6世は、男子が居らず、娘のマリア・テレジアに王位を譲る計画でしたが、オーストリアのハプスブルク家には、此れまで女王の在位は在りませんでした。
しかもオーストリア国王は、同時に神聖ローマ帝国皇帝の称号を兼ね、実体の無い称号ですが、伝統ある称号を女性が名乗ることに対して、ドイツ各領邦国家から反対がある事は当然予想できました。
カール6世は、各領邦国家の君主に、マリア・テレジアの即位に対して反論しないと云う約束を取り付けていました。
マリア・テレジアの即位に際して、フリードリヒ2世は反論を加えます。
フリードリヒ2世の狙いは、王位継承者が別に男でも女でも構わず、オーストリアに戦争を仕掛ける名目が必要でした。
親父が創り上げた強大な軍隊を利用し、領土を拡大する機会の到来です。
マリア・テレジアは有能な人物で、即位した直後から多民族国家オーストリアを統率して戦い、最終的に「アーヘンの和約」が結ばれて戦争は終結します。
結論としては、マリア・テレジアはオーストリアの相続を承認されますが、代償としてシュレジエン地方をプロイセンに割譲する事に成りました。
シュレジエン地方は、当時工業の発達した地域で、人口も100万人を数え、戦争前のプロイセン人口が200万程度ですから、プロイセンの国力は1.5倍に成りました。
◎七年戦争
オーストリアのシュレジエン地方奪回戦争が、七年戦争(1756年~63年)です。
マリア・テレジアはオーストリア継承戦争の経験から、単独でプロイセンに勝利する事は無理だと考え、フランス、ロシアと軍事同盟を締結します。
フランスは伝統的にオーストリア・ハプスブルク家とライバル関係で、常に敵対しており、三十年戦争時、同じ旧教国でありながら、新教側で参戦しました。
その様な過去を持ちながら敢えて、外交交渉を通じてオーストリアはフランスを味方にしたのでした。
プロイセンのフリードリヒ2世は、当時オーストリアの保有する軍事力を低く評価しており、実戦に成れば有利な作戦が展開出来ると考えていました。
フランスを敵にする事は大変な脅威に成りますが、伝統的にフランス・ブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家が同盟を組む事は無いと考えていましたから、両国の同盟に震撼したものと思われます。
このフランス、オーストリアの同盟を「外交革命」と云います。
七年戦争がはじまると、オーストリア、フランス、ロシアの連合軍の破竹の進撃に、さすがのプロイセンも苦戦します。
ロシア軍がベルリン近郊迄侵攻し、フリードリヒ2世も、死を覚悟する迄に追いつめられますが、時のロシア皇帝エリザヴェータが急死し、ピョートル3世が帝位を継承します。
新ロシア皇帝はフリードリヒ2世の崇拝者でした。
「啓蒙専制君主」としての政治姿勢は、各国君主の共感を呼び、ピョートル3世は自ら崇拝するフリードリヒ2世と戦争を交える気持ちは無く、講和を結びロシア軍を撤退させました。
プロイセンはその後、善戦を重ね最終的に、シュレジエン地方はプロイセンの領土として確定され、オーストリアのマリア・テレジアは何も得るものが在りませんでした。
余談
プロイセンに勝利をもたらした、フリードリヒ2世は、後々迄伝説の大王として語り継がれていきました。
第二次世界大戦末期、風雲急を告げるベルリンで、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、自分の執務室にフリードリヒ2世の肖像画を掲げ、七年戦争の奇跡を願っていたとの逸話も存在しています。
現実にアメリカ大統領フランクリン・ローズヴェルトが急死するのですが、最終的にドイツは連合軍に破れ、ヒトラーは自ら命を断ちました。
二度の戦争を通じて、プロイセンはドイツの領邦国家の中ではオーストリアに次ぐ大国の地位を確立しました。
又、「啓蒙専制君主」という政治スタイルは、東ヨーロッパに広まり、ロシアのピョートル3世の様にその崇拝者も多く存在していました。
プロイセン終わり・・・

フリードリッヒ2世
◎オーストリア継承戦争
フリードリヒ2世は二度の戦争でプロイセンをヨーロッパの一流国に押し上げる事に成功しました。
その一つがオーストリア継承戦争(1740年~48年)で、この年、オーストリア国王にマリア・テレジアが即位しました。
前王カール6世は、男子が居らず、娘のマリア・テレジアに王位を譲る計画でしたが、オーストリアのハプスブルク家には、此れまで女王の在位は在りませんでした。
しかもオーストリア国王は、同時に神聖ローマ帝国皇帝の称号を兼ね、実体の無い称号ですが、伝統ある称号を女性が名乗ることに対して、ドイツ各領邦国家から反対がある事は当然予想できました。
カール6世は、各領邦国家の君主に、マリア・テレジアの即位に対して反論しないと云う約束を取り付けていました。
マリア・テレジアの即位に際して、フリードリヒ2世は反論を加えます。
フリードリヒ2世の狙いは、王位継承者が別に男でも女でも構わず、オーストリアに戦争を仕掛ける名目が必要でした。
親父が創り上げた強大な軍隊を利用し、領土を拡大する機会の到来です。
マリア・テレジアは有能な人物で、即位した直後から多民族国家オーストリアを統率して戦い、最終的に「アーヘンの和約」が結ばれて戦争は終結します。
結論としては、マリア・テレジアはオーストリアの相続を承認されますが、代償としてシュレジエン地方をプロイセンに割譲する事に成りました。
シュレジエン地方は、当時工業の発達した地域で、人口も100万人を数え、戦争前のプロイセン人口が200万程度ですから、プロイセンの国力は1.5倍に成りました。
◎七年戦争
オーストリアのシュレジエン地方奪回戦争が、七年戦争(1756年~63年)です。
マリア・テレジアはオーストリア継承戦争の経験から、単独でプロイセンに勝利する事は無理だと考え、フランス、ロシアと軍事同盟を締結します。
フランスは伝統的にオーストリア・ハプスブルク家とライバル関係で、常に敵対しており、三十年戦争時、同じ旧教国でありながら、新教側で参戦しました。
その様な過去を持ちながら敢えて、外交交渉を通じてオーストリアはフランスを味方にしたのでした。
プロイセンのフリードリヒ2世は、当時オーストリアの保有する軍事力を低く評価しており、実戦に成れば有利な作戦が展開出来ると考えていました。
フランスを敵にする事は大変な脅威に成りますが、伝統的にフランス・ブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家が同盟を組む事は無いと考えていましたから、両国の同盟に震撼したものと思われます。
このフランス、オーストリアの同盟を「外交革命」と云います。
七年戦争がはじまると、オーストリア、フランス、ロシアの連合軍の破竹の進撃に、さすがのプロイセンも苦戦します。
ロシア軍がベルリン近郊迄侵攻し、フリードリヒ2世も、死を覚悟する迄に追いつめられますが、時のロシア皇帝エリザヴェータが急死し、ピョートル3世が帝位を継承します。
新ロシア皇帝はフリードリヒ2世の崇拝者でした。
「啓蒙専制君主」としての政治姿勢は、各国君主の共感を呼び、ピョートル3世は自ら崇拝するフリードリヒ2世と戦争を交える気持ちは無く、講和を結びロシア軍を撤退させました。
プロイセンはその後、善戦を重ね最終的に、シュレジエン地方はプロイセンの領土として確定され、オーストリアのマリア・テレジアは何も得るものが在りませんでした。
余談
プロイセンに勝利をもたらした、フリードリヒ2世は、後々迄伝説の大王として語り継がれていきました。
第二次世界大戦末期、風雲急を告げるベルリンで、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、自分の執務室にフリードリヒ2世の肖像画を掲げ、七年戦争の奇跡を願っていたとの逸話も存在しています。
現実にアメリカ大統領フランクリン・ローズヴェルトが急死するのですが、最終的にドイツは連合軍に破れ、ヒトラーは自ら命を断ちました。
二度の戦争を通じて、プロイセンはドイツの領邦国家の中ではオーストリアに次ぐ大国の地位を確立しました。
又、「啓蒙専制君主」という政治スタイルは、東ヨーロッパに広まり、ロシアのピョートル3世の様にその崇拝者も多く存在していました。
プロイセン終わり・・・
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