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2012/03/21

人類の軌跡その333:中世ヨーロッパの軍事国家④

<オーストリア>

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マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ(Maria Theresia von Österreich


◎オーストリア

 ドイツの中で最大の領邦国家は、オーストリアで在り、そのオーストリアを支配しているのはハプスブルク家、神聖ローマ帝国皇帝の称号を、事実上世襲しています。
ハプスブルク家は、巧みな婚姻戦略で領土を拡張しますが、その領土は分散した飛び地が多く、結果的にイギリスやフランスのような中央集権化が物理的に困難でした。

 更に、広い領土の中には、ドイツ民族以外の民族が居住している地域も存在しました。
代表的地域は、ハンガリーとチェコ(ベーメン)です。
ハンガリーはマジャール人、チェコはチェク人、当時のオーストリアは多民族国家で在り、この様な地域を一つの国家としてまとめ上げるには、相当の苦労を伴いました。

 外交面では、16世紀以来、オーストリアの脅威となったのは、オスマン・トルコ帝国でした。
オスマン・トルコ帝国は、度々オーストリアに侵攻し、首都ウィーンは二度オスマン・トルコ軍に包囲されました。
しかし、1683年の第二次ウィーン包囲の後、今度はオーストリアが、オスマン・トルコ帝国に侵攻を繰り返します。

 1699年にはオスマン・トルコ帝国との間にカルロヴィッツ条約を結び、オスマン・トルコ帝国支配下に在った、ハンガリー中央部と東部を割譲しました。
こうして、オーストリアは中央ヨーロッパの大国に発展します。

 マリア・テレジア(在位1740年~80年)が即位するのですが、彼女の即位にプロイセンが異議を唱えて、オーストリア継承戦争が勃発、続く七年戦争でもオーストリアは敗北します。
 
 オーストリア自体の国家的条件が複雑な為、プロイセンの様に近代的な国家形成が不可能な中、マリア・テレジアは、大国を手際良く統治したと思います。
彼女は女帝でありながら、子供も多く居り、しかも、彼女は、産まれた子供を全員自分の手で育てました。
当時の上流貴族たちは子供が生まれると、養育担当者に預けて、自分では面倒を見ないというのが普通でした。
昔から、上流階級は親子肉親の情が薄いと言われる所以です。
子育てと、女帝として国家経営を熟し、プロイセンに敗北はしましたが、人間的には大人物です。
彼女の娘の一人が後にフランス王ルイ16世に嫁ぎ、外交革命で、フランスと友好関係を結んだ証としての政略結婚ですが、その娘がマリー・アントワネットです。

 マリア=テレジアの長男がヨーゼフ2世、将来のオーストリア皇帝・神聖ローマ皇帝と成る彼は、マリア・テレジアにより1765年、共同統治者として、神聖ローマ皇帝に即位し、母子で国政を運営する事としました。
親子関係は良好なのですが、マリア・テレジアは、息子ヨーゼフがプロイセン国王フリードリヒ2世崇拝者で有る事に懸念を抱いていました。
短期間でプロイセンを一流国に押し上げたフリードリヒ2世の政治手法を学ぶ事を望みますが、マリア・テレジアから見れば、祖国オーストリアから領土を奪った宿敵、その人物を息子が崇拝している事は問題でした。

 ヨーゼフ2世は、マリア・テレジアの死後、啓蒙主義的な内政改革を次々に実施します。
ヨーゼフ2世も「啓蒙専制君主」と呼ばれ、その改革内容は、農奴解放令・農民保護の為、土地税制改革・貴族の特権排除・商工業の育成等多岐に渡ります。
しかし、これらの改革は殆どは失敗に終わり、ヨーゼフ2世の改革は、理想は高いものの、オーストリアと云う複雑な国の実状に適合せず、周囲の貴族たちの理解を得なかった事が、失敗の理由と思われます。

オーストリア終わり・・・

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