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2012/03/23

人類の軌跡その335:ロシア②

<ロシアの台頭その②>

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ピョートル1世:Пётр I Алексеевич

◎ロシアの発展

 イヴァン4世崩御の後、ロシアは大混乱に陥ります。
王家の血筋が絶え、偽皇帝の出現、農民反乱、ポーランドやスウェーデンの侵入等が続き、この様な混乱の中、1613年に、貴族によりミハイル・ロマノフが皇帝に選ばれ、ロマノフ朝が始まりました。

 しかしながら、その後も国内政治は安定せず、1667年から71年迄、ステンカ・ラージンを指導者とする大農民反乱が発生します。

 ロマノフ朝ロシア、発展の基礎を築いたのはピョートル1世(在位1682年~1725年)で、彼の時代から正式に国名がロシア帝国と成りました。
ピョートル1世は、ロシアをヨーロッパ風の国に仕立て、近代化を推進したいと考えます。
当時既にイギリスでは、名誉革命により絶対主義が終焉をむかえ、フランスではルイ14世が、絶対主義の絶頂期をむかえていました。
一方、当のロシアは、絶対主義以前の状態で、文化的にも非常に遅れており、ピョートル1世が貴族達のエチケットについて注意を促す程でした。
但し、ピョートル1世も西欧諸国の君主と比較すると、それ程礼儀正しい方では在りませんでしたが。

 ピョートル1世は、ヨーロッパ風の国家体制を確率する為、ヨーロッパ諸国の見聞(視察)自ら行いました。
1697年、総勢250名の大使節団をヨーロッパ諸国に派遣し、ヨーロッパの文物、制度を輸入導入しようと考えたのです。

 17世紀の末期から18世紀初頭にかけて、西ヨーロッパの先進国が採用していた経済政策は、重商主義で在り、オランダ、イギリス、フランスは、東インド会社を設立して、アジア貿易に進出していました。
ピョートル1世も、ロシアの進むべき方向は、重商主義と悟ります。
当時のロシアは現在と異なり、内陸国で港はアルハンゲリスクと云う、北極圏に近い港で、スカンディナヴィア半島の北側を迂回しなければ到達できない辺境の地で、しかも一年の大半は凍結海域に成ります。
 
 当時バルト海沿岸はスウェーデンの領土でしたが、良港を得る為にピョートル1世はスウェーデンと北方戦争(1700年~21年)を起こします。
この戦争に勝利して、獲得した小さな漁村に建設した町がペテルスブルクで、湿地帯の中に在り都市建設には不向きな場所ですが、10年間に4万人の農奴と5千人の職人を動員して港と都市を建設し、この町を新首都として貴族を強制的に移住させました。

 ピョートル1世の時代のロシアは、東にも領土を拡張し中国北方迄到達しています。
中国は清朝の絶頂期で在り、その清との間で国境線の確定をネルチンスク条約(1689年)によって行いました。
この条約はロシアと清朝が対等で、この時点では、アジアの国もヨーロッパに劣らず繁栄している証でした。
 
余談
この条約を締結するに当たり何語で書類を作成したのか?
実は条約の原本はラテン語で書かれており、清朝宮廷にイエズス会の宣教師が仕えていた為、彼等が、交渉で活躍したと伝えられています。


続く・・・
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