2012/03/27

人類の軌跡その337:ロシア④

<日本人大黒屋光太夫>

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映画 おろしゃ国酔夢譚より

 エカチェリーナ2世の時代、ロシア領土は拡大し、プロイセン、オーストリアと共同でポーランドを分割、その結果、1793年にポーランドは滅亡します。
南下政策では、オスマン・トルコ帝国からクリミア半島を割譲、クリミア半島は、黒海に面した半島で、ここから地中海を通り、大西洋で在る外洋に進出する事が可能となりました。

 東アジア方面の進出のも積極的に活動し、1792年には日本にラクスマンを使節として派遣しています。
これは日本人商人、大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)が大きく関わっており、彼は現在の三重県伊勢の商人で、1783年米や木綿を積んで伊勢から江戸に向かう途中で難破し、北上する海流に乗り、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着したのでした。
一行は17人は、その島に来ていたロシア人毛皮商人に救助され、ロシア本土に渡る事になります。
光太夫達は日本に帰る事を懇願するのですが、日本は鎖国中、仕方無く、彼等はロシア人商人と共に、シベリアのイルクーツクに1789年に達したものの、その時には光太夫の一行は5人に減っていました。
ロシアの厳しい自然や風土は、当時の日本人が経験した事のないものでした。
イルクーツクで光太夫は、学者で実業家のラクスマンと云うロシア人と知り合い、1791年、ペテルスブルグで皇帝エカチェリーナ2世に謁見する事ができました。

 光太夫がエカチェリーナ2世に謁見した目的はただ一つ、日本への帰国を訴える為でした。
当時、エカチェリーナ2世も、日本貿易に関心が在り、漂着民大黒屋光太夫を日本に送り届けるという名目で、日本に使節を送ります。
使節に選ばれたのが、ロシアで光太夫達の面倒をみたラクスマンの息子でした。

 5人の日本人の内、2人はロシアに残る道を選びました。
ロシア人と結婚し、生活基盤が出来ていたからです。
結局、光太夫を含めて3人が日本に向かうのですが、そのうち1人は根室で死んでいます。

 1792年、ロシア使節ラクスマンは北海道根室に到着しました。
江戸幕府は、漂着民は受け入れますが、外交交渉は長崎でしかおこなわない、としてラクスマンに長崎への入港許可書を与え、日本との貿易交渉は事実上失敗します。
 
 日本側に引き渡された光太夫達は、北海道から江戸に護送され、江戸では幕府の役人から取り調べを受け、光太夫は貴重な海外の情報を数多く持っており、ロシア皇帝に謁見しているくらいですから、ロシア上流階級と幅広い付き合いも在り、ヨーロッパの制度や思想もそれなりに理解していました。この様な人物を、重く用いれば日本にとって、有利なのですが、幕府にはその様な発想は無く、一方幕府から見れば、光太夫は、世界を垣間見た危険な人物で、一般庶民と混じわらせる事は出来ません。
念願の帰国を果たしたのも関わらず、光太夫は江戸に家を与えられ死ぬ迄軟禁生活を送りました。
日本に帰ってきた漂流民が、海外知識を利用して活躍する様に成るのは、幕末のジョン万次郎以後の事なのです。


ロシア終わり・・・

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