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2012/03/29

人類の軌跡その339:アジア貿易②

<アジア貿易その②>

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オランダ東インド会社 バタヴィア交易船

◎ポルトガルの衰退

 しかし、ポルトガルのアジア貿易独占は長く続きませんでした。
16世紀後半からポルトガル勢力は衰退して行きますが、最大の理由はオランダとイギリスの参入です。オランダ、イギリスと対抗する為、軍事費が増大、その負担に耐えられませんでした。
ポルトガルの当時の人口は150万人、この中でアジア貿易の為、海を渡る事の出来る成年男子は数が少なく、国家の人口規模に比較してあまりにも広大な交易圏を独占しようとした為とも云われています。

 ポルトガルが香料貿易を独占した時、その香辛料の取引量は全体の14%に過ぎず、従来からのインド商人、ムスリム商人がポルトガルをとの競合を避けながら、交易をつづけていたのでした。
例えば、この時期に、スマトラ島西端にアチェー王国、ジャワ島西部のバンテン王国、中部にはマタラム王国が発展してきますが、これらは、ポルトガルを避けて開拓された航路沿いに発達した国々です。

 ところで、16世紀から17世紀前半の東南アジア地域は「商業の時代」と云われる程に貿易が活発でした。
中国明朝の経済発展が著しく、中国貿易が活発になるのは当然の成り行きですが、ポルトガルも中国貿易に進出するものの、1571年にはスペインもフィリピンにマニラを建設して、アジア貿易にのりだします。
スペインは、ポルトガルとは逆回りのアメリカ大陸経由でアジアに到達したのでした。

 堺等日本人商人が、積極的に海外に進出したのも、この時期で、イエズス会のフランシスコ・ザビエルがインドで日本人に出会ったのも、その例の一つです。
他にもタイのアユタヤ朝で活躍した山田長政が有名です。

◎オランダの進出

 オランダは、1602年に東インド会社を設立しました。
そして、ポルトガルを追い落としながら、積極的に植民地経営とアジア貿易の独占をめざしていきます。
東南アジアの各地に商館を建設しましたが、その中心になったのが、ジャワ島中部に建設されたバタヴィア、現在のインドネシアの首都ジャカルタです。
オランダは、更に東の香辛料の特産地モルッカ諸島にも根拠地を建設します。

 イギリスも香辛料貿易に参入してきます。
しかし、当時はオランダの方が強く、後発のイギリス勢力を、東南アジアからの駆逐を企てて発生した事件が、1623年のアンボイナ事件です。

 モルッカ諸島のアンボイナに、オランダの商館がありました。
商館の機能よりも、要塞の性格に近い施設ですが、1623年2月、この要塞に日本人の傭兵が入り込みます。
この日本人はイギリス人に雇われた傭兵で、当時の日本では応仁の乱以来、戦国の世が長く続いていましたから、傭兵としての価値を見出され、アジア各地で活躍していました。
当然、オランダ側はこの行為を不審に思い、イギリス商人たちを捕らえて尋問します。
実際は可也激しい拷問を加え、苦痛に耐えかねたイギリス商人たちは、オランダ商館襲撃計画を告白しました。
その結果、オランダはイギリス商人とその仲間を処刑しましたが、この事件をアンボイナ事件と呼びます。
処刑されたのはイギリス人10人、日本人9人、ポルトガル人1人でした。
この事件を発端とした、イギリス勢力はモルッカ諸島から撤退、同年に日本に在った平戸商館を閉鎖し、オランダによる香料貿易の独占が実現したのです。

続く・・・

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