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2012/03/30

人類の軌跡その340:アジア貿易③

<アジア貿易その③>

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オランダ東インド会社(正式名、連合東インド会社): Vereenigde Oostindische Compagnie、略称VOC

◎オランダの進出その②

 翌1624年、オランダは台湾南部を占領、現在の台南の近くにゼーランディア城を建設します。
ゼーランディアは、中国と日本に対する貿易拠点として造られたもので、当時の台湾は、如何なる国の領土でも在りませんでした。
この後、オランダは日本との貿易も着々と伸ばしますが、この時期、徳川幕府が徐々に鎖国の方針を固めて行き、ポルトガル、スペインは日本から撤退して行きますが、オランダだけは巧妙に幕府に取り入り、以後日本と貿易を継続する事に成ります。

 例えば、1637、38年、キリシタンの反乱の島原の乱が起きますが、この時オランダはキリスト教国にも関わらず、幕府を援助して海上から原城跡に立て篭る反乱軍に砲撃を加えました。
ポルトガル船が日本への来航を禁止されて、オランダによる日本貿易の独占が始まる時が、島原の乱鎮定後の1639年です。

 オランダは、1641年ポルトガルからマラッカを攻略、1652年にはアフリカ大陸最南端にケープ植民地を建設し、ヨーロッパとアジアを結ぶ重要な中継地点と成ります。
こうして、オランダはアジア航路を確保し、アジア内貿易で蓄積した富をヨーロッパに送る体制を構築しました。

◎「商業の時代」から植民地経営へ

 16世紀から17世紀前半迄、アジアは活気在る「商業の時代」でした。
ところが、17世紀後半から長い不況に入ります。
原因は幾つか在りますが、日本の鎖国もその一つです。
最大の要因は中国の政変で、中国では1644年、明朝が滅亡し、変わって満州から侵入した女真族の清朝が成立します。
一方、明朝の復活を図る勢力が、台湾を根拠地にして清朝に抵抗しました。
この指導者こそが鄭成功で、彼等は中国沿岸地域で軍事活動を展開し、清朝は、これに対抗する為に、1655年以降「海禁政策」を採用します。
海外貿易禁止で、貿易が鄭成功勢力の資金源に成っており、更に、1661年には「遷界令(せんかいれい)」を布告し、福建省・広東省等の海岸から20キロ迄の住民を強制的に内陸部に移住させ、鄭成功達の孤立企てます。
「遷界令」は二十年近く継続しました。
中国は巨大市場で、陶磁器や絹など多くの特産品が在り、この中国が国際交易から完全に消滅した結果、大きな不況をもたらしたのです

 更に、同じ時期にヨーロッパで胡椒の大暴落が発生、香料貿易で以前の様な暴利を望む事は切望的に成った事も原因です。
オランダは商業活動から植民地経営へと政策を転換し、商品を移動させる事では無く、商品を生産する道を選びました。
領有地を拡大し、プランテーションをつくり、コーヒー等を栽培して、ヨーロッパに輸出するのです。
商館を中心とした点の支配から、面の支配に変わり、当然、人も支配する様に成りました。
植民地経営の始まり、その結果、ジャワ島のバンテン王国、マタラム王国等の国々を圧迫していくことに成りました。

アジア貿易終わり・・・

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