人類の軌跡その344:オスマン・トルコ帝国①
<オスマン帝国その①>

1389年6月15日 コソヴォの戦い
◎オスマン帝国の隆盛
14世紀から20世紀初頭迄、長い間繁栄を続けたイスラムの大帝国がオスマン帝国です。呼び方も様々で、オスマン朝、オスマン・トルコとも云い、19世紀以降は単にトルコと書かれている事も多い様です。
国名の由来は、建国者の一族がトルコ人のオスマン族に由来します。
トルコ人は本来、モンゴル高原から中央アジア一帯の草原地帯で遊牧生活を営んでいました。
やがて、長い年月と共に西に移動し、最初は、イスラムの国々で軍人として重宝されました。
遊牧民族の為、騎馬兵の戦力としては、右に出る者は無く、古くはマムルーク、つまり奴隷、として西アジアにつれてこられて、活躍する者も存在しました。
やがて、部族事にイスラムに改宗して、西に移動して行きます。
オスマン族も同じ様に、東から移動し、1299年、現在のトルコ共和国のアナトリア地方に国を建てました。
建国者はオスマン=ベイ、都はブルサに定めます。
当初は、地方政権の一つに過ぎず、アナトリア地方には、同様な勢力が群雄割拠していました。
オスマン帝国は、ヨーロッパに向かって領土を拡大しました。
ヨーロッパとアジアを隔てるのがマルマラ海、一番狭い箇所が、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡。
オスマン帝国は、ダーダネルス海峡を渡り、イスラム国家として、初めてバルカン半島に領土を獲得しました。
ムラト1世(在位1359年~89年)の時、バルカン半島のアドリアノープルに首都を移します。
コンスタンティノープルに都を定める、ビザンティン帝国は、次第にオスマン帝国に領土を奪われ、周囲を包囲された形に成りますが、コンスタンティノープルは難攻不落、ビザンティン帝国は海上貿易を継続し、此の後100年間存続します。
続く・・・

1389年6月15日 コソヴォの戦い
◎オスマン帝国の隆盛
14世紀から20世紀初頭迄、長い間繁栄を続けたイスラムの大帝国がオスマン帝国です。呼び方も様々で、オスマン朝、オスマン・トルコとも云い、19世紀以降は単にトルコと書かれている事も多い様です。
国名の由来は、建国者の一族がトルコ人のオスマン族に由来します。
トルコ人は本来、モンゴル高原から中央アジア一帯の草原地帯で遊牧生活を営んでいました。
やがて、長い年月と共に西に移動し、最初は、イスラムの国々で軍人として重宝されました。
遊牧民族の為、騎馬兵の戦力としては、右に出る者は無く、古くはマムルーク、つまり奴隷、として西アジアにつれてこられて、活躍する者も存在しました。
やがて、部族事にイスラムに改宗して、西に移動して行きます。
オスマン族も同じ様に、東から移動し、1299年、現在のトルコ共和国のアナトリア地方に国を建てました。
建国者はオスマン=ベイ、都はブルサに定めます。
当初は、地方政権の一つに過ぎず、アナトリア地方には、同様な勢力が群雄割拠していました。
オスマン帝国は、ヨーロッパに向かって領土を拡大しました。
ヨーロッパとアジアを隔てるのがマルマラ海、一番狭い箇所が、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡。
オスマン帝国は、ダーダネルス海峡を渡り、イスラム国家として、初めてバルカン半島に領土を獲得しました。
ムラト1世(在位1359年~89年)の時、バルカン半島のアドリアノープルに首都を移します。
コンスタンティノープルに都を定める、ビザンティン帝国は、次第にオスマン帝国に領土を奪われ、周囲を包囲された形に成りますが、コンスタンティノープルは難攻不落、ビザンティン帝国は海上貿易を継続し、此の後100年間存続します。
続く・・・
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