2012/04/06

人類の軌跡その345:オスマン・トルコ帝国②

<オスマン帝国その②>

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コンスタンティノープル攻略

◎オスマン帝国の拡大

 ムラト1世の時代、イエニチェリと呼ばれる軍隊が組織されました。
これは、新に領土バルカン半島で、白人キリスト教徒の少年を奴隷として組織した軍隊です。
40戸に1戸の割合で、身体強健、眉目秀麗な少年を差し出させ、彼等は、首都に集められた上、イスラムに改宗させられ、共同生活を営みながら軍事訓練を受けるのです。
イエニチェリはオスマン帝国を支える軍事力として、他国から恐怖の対象とされました。イエニチェリの部隊が移動する時は、先導に軍楽隊付き、演奏に合わせながら行進し、その先頭には、軍旗として大きな鍋が掲げられていました。
これは、部隊の兵士は皆、同じ釜の飯を食う仲間を意味し、彼らの団結の証で、バルカン半島各地では、遠くからイエニチェリの軍楽隊の音楽が聞こえてくると、農民は農作業を放棄した、家に隠れたと云います。
後に、ヨーロッパ各国も、イエニチェリを真似て、軍楽隊を編成する様に成りました。

 バヤジット1世(在位1389年~1402年)の時代、ニコポリスの戦い(1396年)で北方のハンガリー王ジギスムントと戦い勝利をおさめ、バルカン半島を支配下に置いたオスマン帝国は、東のアナトリア地方で領土拡大を図りますが、その方面にはティムール帝国が存在していました。
モンゴル帝国の復活を試みるティムールは、中央アジアを統一後、イラン・メソポタミアを領土に加えて、アナトリア地方に迄進出して来ました。
オスマン帝国は、ティムールをアンカラの戦い(1402年)で迎え撃ちますが、結果は、ティムールにバヤジット1世は捕虜とされてしまいます。
この時点で、オスマン帝国は一時は滅亡するのですが、一方ティムール自身も1405年には死亡し、オスマン帝国はその後再興されるのです。

 復活したオスマン帝国は、短期間の内にアンカラの戦い以前の領土を回復し、更に領土を拡張して行きます。
1453年メフメト2世は、コンスタンティノープルを陥落させ、ビザンティン帝国を滅亡させました。
ビザンティン帝国は、古代ローマ帝国からの流れを受け継いだ国家の為、1500年存続したローマ帝国が滅亡したとも考えられます。

 1000年以上もビザンティン帝国の都として反映した、コンスタンティノープルの守りは厳重を極め、三重の城壁に囲まれていました。
メフメト2世は10万の大軍でこの都を攻撃するのですが、城壁を破る事が叶わず、2カ月が過ぎます。
ビザンティン最後の皇帝コンスタンティヌス11世は、コンスタンティノープルが陥落する事は、既に明白で事実、多くの市民は都を逃れており、皇帝が戦える者を集めた時には、4773人しか存在しませんでした。
しかし、僅か4千で10万の軍勢を凌ぐ事が可能な程、鉄壁の守りだったのです。

 コンスタンティノープルの海に面している部分は、防御が弱く、オスマン海軍は海からの攻略を企てますが、ボスポラス海峡は潮流が速くてこの作戦は無理でした。
コンスタンティノープルには、金角湾と云う入り江が存在し、この入江に侵入できれば海上からの攻撃も可能です。
しかし、ビザンティン側は金角湾の入り口を巨大な鎖で閉塞し、オスマン海軍の侵入を妨げていました。

続く・・・

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