2012/04/07

人類の軌跡その346:オスマン・トルコ帝国③

<オスマン帝国その③>

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艦船を陸路で金角湾内に運ばせるメフメト2世


◎オスマン帝国の拡大その②

 難攻不落のコンスタンティノープルを攻略する為に、メフメト2世が行った奇抜な作戦が「山越え」でした。
海から金角湾に侵攻できないのなら、船に山を越えさせろと命令しました。
湾を一山こえた反対側の海岸から艦隊を陸揚げして、70隻の艦船が山を越えて、金角湾に侵入しました。
ビザンティン側はこの意表を突いた作戦に動揺します。
更に、城壁を破る為に「ばけもの」とよばれる超大型大砲を建造し、その長さ8メートル、砲弾の重さ600キロ、60頭の牛に引かせて、アドリアノープルから陸路移動しました。

 陸と海からの総攻撃で1453年5月29日、遂にコンスタンティノープルは陥落、ビザンティン帝国は滅亡、最後の皇帝コンスタンティヌス11世は、乱戦の中で戦死したと云われています。
この時オスマン帝国のメフメト2世は、23歳の若さでした。

 この後、オスマン帝国は、コンスタンティノープルに遷都し、やがてイスタンブールと呼ばれる街に成ります。

 セリム1世(在位1512年~20年)の時代には、西方に進出し、イランのサファヴィー朝を圧迫、更に、エジプトに侵攻し、マムルーク朝を1517年に滅ぼしました。
マムルーク朝は、モンゴルの攻撃で滅亡したアッバース朝のカリフを保護していたという話が在り、セリム1世は、マムルーク朝を滅ぼした時、カリフの子孫を見つけて、その「カリフ」の地位を譲り受けました。
事実は、19世紀頃にオスマン帝国の権威を形造る為に創作された伝説らしいのですが、少し前迄は事実として語られていました。
世俗の王とか皇帝等を意味する称号がスルタン、全イスラム信者の指導者としての称号がカリフ、両方を兼ね備えたオスマンの皇帝を「スルタン=カリフ」と19世紀頃から呼ぶようになります。
セリム1世の時代、オスマン帝国は、アジア、ヨーロッパ、アフリカの三大陸に領土を持つ大帝国に発展しています。

 更に領土を拡大して、オスマン帝国の最盛期を成した皇帝が、スレイマン1世(在位1520年~66年)です。
1526年、モハーチの戦いでハンガリーを撃破、属国化し、更にドイツ、神聖ローマ帝国に侵攻、神聖ローマ皇帝カール5世の領地であるオーストリアの都ウィーンを包囲しました。
1529年の第一次ウィーン包囲では、イエニチェリ1万5千、スィパーヒー4万で、ウィーンを攻めました。
 
 当時ドイツではルターの宗教改革が始まった頃、ルター派諸侯とカール5世の対立が激しく、カール5世は、オスマン帝国の攻撃を凌ぐ為、この時ルター派の信仰をいったん認めました。
因みに、ルターは「トルコ人はヨーロッパの腐敗に対する神の罰だ」と言っています。

続く・・・

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