<オスマン帝国その④>
ウィーン包囲◎オスマン帝国の拡大その③ 最終的にオスマン軍は、ウィーンを陥落させる事に失敗し撤退しました。
しかし、このころからオスマン帝国は、ヨーロッパの国際関係に大きな影響力を持つように成ります。
特にイタリアの支配権を巡って、ドイツ、スペインのハプスブルク家と対立関係にあったフランスは、オスマン帝国に接近して友好関係を結びました。
スレイマン1世は、フランス王フランソワ1世に恩恵として、オスマン領内のフランス人に対する治外法権、港湾での通商権、イェルサレムの守護権等の特権を与えますが、この保護特権をカピチュレーションと云います。
19世紀以後に成ると、フランス等ヨーロッパ諸国はこの特権を利用して、オスマン帝国に圧迫を加える事に成りますが、この時代のカピチュレーションは、オスマン帝国からのフランスに対する恩恵です。
オスマン帝国の立場の方が強力で在った証拠です。
1538年には、プレヴェザの海戦で、スペイン・ヴェネツィア連合軍を撃破、東地中海の制海権を確立し、更にチュニジア、アルジェリア等アフリカ北岸、イラクを併合して、地中海を取り囲む大領土と成りました。
絶頂期のスレイマン1世の姿を、オーストリア大使は以下の様に記しています。
「スルタンは地面から1フィート程度の、むしろ低い玉座の上に座っていた。
玉座は多くの高価な絨毯と精巧な細工を施したクッションに覆わていた。
…スルタンの表情は、厳しい威厳が満ちあふれ、我々が到着した際、式部官は手を取ってスルタンの面前に案内してくれた。
スルタンは私が口上を読みあげる間、耳を傾けていた。
わが皇帝陛下(カール5世)の要求に対して、見下すような物腰で、言葉少なく「良し、良し」と答えるだけであった。」
(オーストリア駐トルコ大使ビュスベックの書簡)
スレイマン1世が、神聖ローマ皇帝カール5世宛に出した手紙は以下、
「朕は、諸スルタンのスルタン、諸君主の証、地上に於ける神の影(カリフ)、地中海と黒海、ルメリアとアナドル、ルームとカラマン、エルズルムとディヤルバクル、クルディスタンとルーリスタン、イランとズルカドゥリエ、エジプトとダマスカス、ハレプとエルサレム、全アラビアの諸地方、バクダードとバスラ、アデンとイェメンの諸国土、タタールとキプチャク平原の諸地域、ブダとそれに属する諸地、そしてまた我らが剣をもって勝ちえた多くの諸国土の大王でありスルタンである。
スルタン・セリム・シャー・ハンの子、スルタン・スレイマン・シャーである。
その方、スペインの諸地方の王カールであろう。以下の事を知れ……」
(スレイマン1世から神聖ローマ皇帝カール5世への親書)
自分の支配する地名を列挙した挙句、カール5世は只「スペイン諸地方の王」との表現のみ、その権力の違いを見せつけています。
続く・・・
スポンサーサイト
コメント