2012/04/10

人類の軌跡その348:オスマン・トルコ帝国⑤

<オスマン帝国その⑤>

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レパントの海戦

 スレイマン1世は、イスラム教スンナ派を国教とし、壮大なスレイマン・モスクを造営しています。

◎オスマン帝国の統治

 バルカン半島、アナトリア地方、シリアの一部は、皇帝直轄地で、それ以外のエジプト、アラビア半島等は、在地の有力者に統治を任せて、税金だけを納めさせるという、比較的緩やかな支配の仕方でした。
直轄地では、ティマール制と呼ばれる軍事封土制を行いますが、之はセルジューク朝やマムルーク朝で行われていたイクター制を発展させたものでした。
騎士で在る、スィパーヒーに、一定の地域の徴税権を与える代わりに、軍事奉仕を義務づけるものです。

 オスマン帝国の皇帝、スルタンは、「二聖都の守護者」として宗教的権威を持ちます。
之はイスラム教の二大聖地であるメッカとメディナを支配下に治めていた事によります。
オスマン帝国は、各地にマドラサと呼ばれるイスラム法学の高等教育機関を設けて、ウラマー(イスラム法学者)を育成しました。
ウラマーは、更に有能な官僚として、民族に関係なく行政や司法、教育を担当し、イエニチェリ等奴隷出身の者でも、有能で在れば高い地位に就く事を可能としました。

 オスマン帝国の領土には、イスラム教以外の宗教を信じる者も存在します。
ギリシア正教、ユダヤ教等ですが、オスマン帝国は、是等宗教の信者にミッレトいう共同体を形成させ、それぞれのミッレトに自治と安全保障を与えました。
イスラム法に基づく生活を強制せず、自分達の問題は自分達で処理する事を認めたのです。
外国から商売等で入国する異教徒には、カピチュレーションと云う特権を与えました。

◎衰退

 スレイマン1世以後のオスマン帝国は、徐々に衰退していきます。
1571年レパントの海戦で、スペイン艦隊に敗北しますが、スペイン艦隊が無敵艦隊と呼ばれる切掛を作りました。
オスマン帝国は、この敗北で一気に地中海の支配権を失った訳では在りませんが、ヨーロッパ人にとって、レパントの海戦は象徴的な勝利でした。
この時期から、東西貿易の流れが地中海から大西洋に移りますが、之はオスマン帝国にとっては大きな後退を意味します。

 オーストリアとの紛争は断続的に続き、1683年オスマン軍がウィーンを再び包囲攻撃します(第二次ウィーン包囲)。
この包囲戦が失敗に終わると、今度は逆にオーストリア側が優位に立ち、劣勢のオスマン帝国は、1699年にカルロヴィッツ条約でハンガリーの支配権を放棄し、ハンガリーはオーストリアの支配下に入ります。

 ロシアも、黒海北岸にあるオスマン帝国の領土を徐々に簒奪して行きます。
フランスやイギリスもカピチュレーションを逆手に取って、オスマン帝国から利権を獲得して行きました。
17世紀後半以後は、国内でもスィパーヒーの反乱、地方総督の自立化傾向が強まり、オスマン帝国の弱体化が更に進行します。

 △余談

 モーツァルトに「トルコ行進曲」と云う曲が在ります。
モーツァルトは18世紀後半の人で、ウィーンで活動していました。
ウィーン包囲から百年も後に、なぜこの様な曲が生まれたのでしょうか?

 第二次ウィーン包囲の時、ウィーンを取り巻いたオスマン軍には、軍楽隊が在り、ウィーン市民に心理的圧迫感を与える為、何らかの音楽を演奏していたと思われます。
その音楽の記憶が、人々の間に微かに残り、やがてオスマン帝国が衰え、トルコ人が恐怖の対象から、異国情緒の対象に成った時代が18世紀後半と思われます。

オスマン帝国終わり・・・


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