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2012/04/14

人類の軌跡その351:オスマン帝国の東③インド

<サファヴィー朝とムガル帝国その③>

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タージ・マハル

◎ムガル帝国の発展②

 成人後のアクバルは、軍事、政治共に才能を発揮し、まだ不安定だったムガル帝国をインドの大帝国に発展させました。
首都アグラを中心に、その領土は、現在のアフガニスタンから北インド一帯を支配下に治めました。

 アクバル他、ムガル帝国の支配者一族はトルコ系民族で在り、インド人では在りません。
しかも宗教はイスラム教で、支配地域のインド人は、その大多数をヒンドゥー教が占めています。
その為、ムガル帝国がインドを統治するには、インド人達に受け入れられる必要が有りました。
アクバルは、インド人に対して融和的支配を行います。
具体的には、ヒンドゥー教徒へのジズヤ(人頭税)を廃止しました。
ジズヤは、イスラム教の支配下に在る、非イスラム教徒が支払い義務を負う税でした。

 アクバルは最終的に、イスラムでもヒンドゥーでもない新しい宗教を創り、インド統合を考えていた様です。
もう一つは、積極的に北部インドの有力部族であるラージプート族の諸侯と婚姻関係を結びました。ラージプート族は、非常に好戦的な種族で、ムガル帝国でも統治が難しい相手でした。
この様な政策で、インド人の反発を事前に防ぎ、ムガル帝国の最盛期を現出しました。
只、インド全体を支配しているのでは無く、インド南部にはヴィジャヤナガル王国が繁栄しています。

 五代皇帝がシャー・ジャハーン(在位1628年~58年)。
タージ・マハルを建設した事でした。
タージ・マハルは、皇帝シャー・ジャハーンが愛妻ムムターズ・マハルの死を悼んで、彼女を祭る為に造営した廟です。
ムムターズ・マハルは17歳でシャー・ジャハーンと結婚し、36歳で産褥死しています。
18年間の結婚生活の間に、14人の子供を産みました。
ムガルの皇帝は、玉座に座る事はあまり無く、頻繁に一族や有力諸侯の反乱が起こり、国境で戦闘が行われた時は、皇帝みずから軍隊を指揮して、転戦しました。
ムガルの一族は本来遊牧民族の為、各地を転戦する時には家族を引き連れていました。

 タージ・マハルの後ろにはジャムナ川が流れています。
伝説では、シャー・ジャハーンは、川の対岸に黒大理石で、タージ・マハルと同じ形の自分の廟を建て、川に橋を架けて二人の廟をつなごうと考えていたと云います。
実際には、シャー・ジャハーンの晩年、帝位を息子に奪われ、アグラの宮殿に監禁されました。
死ぬ迄の8年間は、監禁された部屋の窓から、タージ=マハルを眺めて泣き暮らしていたと云います。

続く・・・

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