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2012/04/17

人類の軌跡その353:明帝国①

<明帝国その①>

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南京:閲江楼

◎明の成立

 明(1368年~1644年)は、朱元璋によって建国されます。
皇帝としての呼び名が洪武帝(在位1368年~98年)、出身は貧しい農家の四男坊でした。
流行病で親も死に、口減らしの為にお寺の小坊主と成りますが、元朝末期、各地に群雄割拠し、政情は不安定に成りました。
お寺でも食べて行く事は困難な為、放浪の乞食坊主に成り、三年間程、各地を放浪しました。
未だ十代の朱元璋は、生活苦から、紅巾軍に参加しようと決意します。

 紅巾軍は、白蓮教の宗教結社からおこった元朝末期の反乱軍のひとつで、紅巾軍は多くの部隊が各地で活動していました。
朱元璋は、その紅巾軍の一部隊に志願するのですが、元朝の密偵と疑われて、志願を認められません。
やがて、部隊長が現れて、朱元璋の顔を一べつし、やっと志願が叶いました。
多分部隊長は、人並み外れた人相に、何かをやる男かもしれないと感じたのでしょう。

 朱元璋は紅巾軍部隊の中で目覚しい活躍し、軍の中で地位を上げていきます。
暗殺の手段をも使い、最後には紅巾軍の中心人物に迄登り詰めました。
当時元朝は、北京を中心に中国北部は支配していますが、反乱勢力を鎮圧する力は既に存在せず、中国南部には、様々な勢力がそれぞれ支配地域を作り抗争に明け暮れていました。
朱元璋は南京を本拠地に、次第に対立する勢力を打倒して中国の統一に成功しました。
明朝の成立でした。
その時、元朝のモンゴル人は、中国を放棄してモンゴル高原に退去します。

 中国歴代王朝の創始者は、その殆どが名門出身です。
何の身分の内、農民が王朝を開いたのは前漢の劉邦と、朱元璋だけでした。
無一文の身分から身を起こし、立身出世する歴史上の人物は、普通は民衆の心を捉えます。
例えば、日本では豊臣秀吉、中国でも劉邦も同様ですが、この朱元璋は全くそうでは在りません。

 理由は、非常に残虐で猜疑心が強く、皇帝に即位後、異常な迄に多くの人物を処刑しています。
なかには、自分が皇帝になる前に紅巾軍で、苦労を共にした部下達も数多く存在しています。
例えば、胡惟庸(こいよう)の獄(1380年)、李善長の獄(1390年)、藍玉(らんぎょく)の獄(1393年)という事件が起こりましたが、是等の指導者は、若い頃から朱元璋に仕えていて大臣や将軍に成り、謀反の罪で処刑された事件です。
事件そのものは、朱元璋による創作と思われますが、是等の事件で処刑された人数が常識を逸脱しています。
胡惟庸の獄が15,000人、李善長の獄も15,000人、藍玉の獄が20,000人。
一族郎党、関係者、少しでも嫌疑の在る者総てを処刑した結果です。
更に付け加えれば、皇帝の昔の乞食坊主時代を知っている者は、総て口を閉ざされた事を意味しています。

 朱元璋の后に馬皇后が居ます。
紅巾軍時代に二人は結婚し、互いに皇帝、皇后に即位した後も馬皇后は以前と同じ様に、夫の食事を作り身の回りの世話をしました。

 馬皇后にはこの様な話が伝わっています。
馬皇后は、51歳で病死するのですが、死ぬ前から長く病んでいました。
ところが、医者に診察を受けず、薬も全然飲もうとしません。
朱元璋が心配して差し向ける医者も総て追い返してしまいます。
心配した侍女が、「何故、医者に診てもらわないのですか」と尋ねると、馬皇后は「私はもう歳だし、どんな名医に診てもらっても助からない事は自分が一番良く判っている。もし、診察を受けて私が死んだら、夫は責任を追及して医者を殺すでしょう。だから、私は誰にも診てもらわないのです」。

 馬皇后は、夫の残虐な行いを嗜める事ができる唯一の人でした。
この様な人柄から、朱元璋が人望の無い反面、皆から敬愛されたのでしょう。

 朱元璋は全国を統一した後も、本拠地を変える事無く、現在の南京を首都としました。
当時の呼び名は金陵、統一王朝で、首都を中国南部にしたのは、明が最初でした。

続く・・・

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