人類の軌跡その356:明帝国④
<明帝国その④>

鄭和南海遠征
◎永楽帝の政策
永楽帝は、即位当初官僚達の人望を集める事が出来ませんでした。
官僚達は、永楽帝に位を簒奪された建文帝に仕えていたので、彼等から見れば、永楽帝は反逆者そのものです。
従い永楽帝と、官僚達との関係は何処か不協和音が伴い、南京の町そのものの居心地も悪いものでした。
暫く後、都を本来の本拠地である北京に遷しますが、これ以来、北京が中国の首都となります。
首都を遷したもう一つの理由は、北方の遊牧民族の来襲に備えるには、南京よりも北京の方が、都合が良いと云う戦略的な利用もありました。
当時の北京は、人口の三分の一がモンゴル人と云われ、元代以来定住したモンゴル人が可也定住していたのです。最近、良く話題に登る北京の裏町を胡同(フートン)と云いますが、これはモンゴル語が変化したものです。
内閣の設置
洪武帝の時から六部を皇帝直属にして皇帝の独裁政治が進みましたが、実際には、皇帝が単独でできる仕事には限界が在り、皇帝の補佐役、秘書役が必要に成ります。
これが内閣で、中身は違いますが、用語だけは現在の日本に引き継がれています。
儒学の奨励、大規模な編纂事業
反乱により帝位についた永楽帝は官僚、学者に人望が在りませんでした。
ここで学者とは、儒学を修めた者、儒学をマスターしなければ科挙の試験に合格出来ませんから、官僚も又学者なのです。
首都を北京に遷しても、官僚を動かさなければ帝国を治める事は不可能です。
そこで、学者の人気取りの為に、儒学を奨励し、更に大規模な編纂事業を行いました。
国家事業として大百科事典を作るのですが、百科事典を作る事は大仕事で、多くの学者を必要とします。
永楽帝時代に編纂された本が、『永楽大典』、『四書大全』、『五経大全』、何れも儒学関係の百科事典です。
この様に学者優遇しますが、永楽帝は官僚、学者を信頼しきれず、宦官を遣って政治を司る事が多く、宦官を秘密警察として利用し、官僚の動向を内通させました。
宦官というのは、皇帝個人の使用人で在り、身分は低く、学問も無く、更に男でもなければ女でも在りません。
本来、政治の表面に出てくる事は、本来在ってはならない事なのですが、以来、明の政治は、宦官の横暴による混乱がしばしば発生しました。
遠征事業
鄭和の南海遠征、1405年以来七回にわたり、南シナ海、インド洋の国々に大艦隊を派遣します。
これを鄭和の南海遠征と云い、この遠征はスケールが大きく、第一回の時は、62隻の大船団を組ました。
総員2万7千人、一番大きな船は、長さ137メートル、幅56メートル、マスト9本で、コロンブスのサンタ・マリア号は全長23メートル、長さで比較すれば6倍の驚異的な大きさです。
遠征の目的は、明帝国の偉大さを諸国に知らしめて、朝貢を行わせる事。
もう一つ、裏の目的として建文帝の捜索があったといわれています。
靖難の変で敗れた建文帝は、南京で死んだと云われていたのですが、実は死体が確認されていませんでした。
当然、どこかに落ちのびて生きているのではないかと云う噂が常に在り、ヴェトナム方面で建文帝が生きているとの噂も在りました。
艦隊の指揮官に任命されたのが鄭和。
この人物は、宦官で永楽帝が宦官を使った一例です。
鄭和は面白い生い立ちで、彼の家は、モンゴル時代に中央アジア方面から雲南省に移住してきた様です。
雲南省はラオス、ビルマと国境を接する中国南部の辺境で、明朝の支配下に入った時、12歳の鄭和は明軍に捕らえられて、南京に連行され去勢されてしまいました。
やがて、即位する前の永楽帝、燕王に宦官として仕える事に成りました。
靖難の変の時には燕王を助けて活躍し、即位後も永楽帝に宦官として仕えます。
鄭和は大男で、身長180センチ、腰回り100センチと云いますから、可也の体格で、性格も剛胆だったので、永楽帝は彼を武将として抱えていました。
興味深いのは、鄭和がイスラム教徒だったことです。
鄭和の本来の姓は馬と云い、馬と云う姓はイスラム教徒に多い姓で在り、ムハンマドのムの音を漢字表記したものと推定されます。
鄭和の曽祖父の名前が、馬拝顔(バヤン)、バヤンと云う名は漢民族では在りません。
又祖父は、馬哈只(ハッジ)と呼ばれており、ハッジというのは、メッカに巡礼したことのある人に対する尊称です。
鄭和はイスラム教徒のネットワークや、出身民族の横の繋がりで、様々な情報網を持っていた可能性が在ります。その為に南海遠征の司令官に任命されたのでしょう。
インド洋を航海する時、星で緯度を測定するのですが、アラビア式測定器「カマール」を使用し、高度の単位として「イスバ」「ザム」というアラビア語を使用していました。
鄭和の艦隊は、アフリカ東岸に迄達し、第七回遠征では、メッカにも到達しました。
モンゴル遠征
永楽帝は、モンゴル遠征を五回行いましたが、モンゴル人を服属させることは出来ませんでした。
漢民族皇帝自らモンゴル方面に遠征するのは、前漢の劉邦以来です。
五回目の遠征が65歳の時で、帰る途中に崩御しましたが、戦争で即位して、戦争で他界した皇帝でした。
明帝国終わり・・・

鄭和南海遠征
◎永楽帝の政策
永楽帝は、即位当初官僚達の人望を集める事が出来ませんでした。
官僚達は、永楽帝に位を簒奪された建文帝に仕えていたので、彼等から見れば、永楽帝は反逆者そのものです。
従い永楽帝と、官僚達との関係は何処か不協和音が伴い、南京の町そのものの居心地も悪いものでした。
暫く後、都を本来の本拠地である北京に遷しますが、これ以来、北京が中国の首都となります。
首都を遷したもう一つの理由は、北方の遊牧民族の来襲に備えるには、南京よりも北京の方が、都合が良いと云う戦略的な利用もありました。
当時の北京は、人口の三分の一がモンゴル人と云われ、元代以来定住したモンゴル人が可也定住していたのです。最近、良く話題に登る北京の裏町を胡同(フートン)と云いますが、これはモンゴル語が変化したものです。
内閣の設置
洪武帝の時から六部を皇帝直属にして皇帝の独裁政治が進みましたが、実際には、皇帝が単独でできる仕事には限界が在り、皇帝の補佐役、秘書役が必要に成ります。
これが内閣で、中身は違いますが、用語だけは現在の日本に引き継がれています。
儒学の奨励、大規模な編纂事業
反乱により帝位についた永楽帝は官僚、学者に人望が在りませんでした。
ここで学者とは、儒学を修めた者、儒学をマスターしなければ科挙の試験に合格出来ませんから、官僚も又学者なのです。
首都を北京に遷しても、官僚を動かさなければ帝国を治める事は不可能です。
そこで、学者の人気取りの為に、儒学を奨励し、更に大規模な編纂事業を行いました。
国家事業として大百科事典を作るのですが、百科事典を作る事は大仕事で、多くの学者を必要とします。
永楽帝時代に編纂された本が、『永楽大典』、『四書大全』、『五経大全』、何れも儒学関係の百科事典です。
この様に学者優遇しますが、永楽帝は官僚、学者を信頼しきれず、宦官を遣って政治を司る事が多く、宦官を秘密警察として利用し、官僚の動向を内通させました。
宦官というのは、皇帝個人の使用人で在り、身分は低く、学問も無く、更に男でもなければ女でも在りません。
本来、政治の表面に出てくる事は、本来在ってはならない事なのですが、以来、明の政治は、宦官の横暴による混乱がしばしば発生しました。
遠征事業
鄭和の南海遠征、1405年以来七回にわたり、南シナ海、インド洋の国々に大艦隊を派遣します。
これを鄭和の南海遠征と云い、この遠征はスケールが大きく、第一回の時は、62隻の大船団を組ました。
総員2万7千人、一番大きな船は、長さ137メートル、幅56メートル、マスト9本で、コロンブスのサンタ・マリア号は全長23メートル、長さで比較すれば6倍の驚異的な大きさです。
遠征の目的は、明帝国の偉大さを諸国に知らしめて、朝貢を行わせる事。
もう一つ、裏の目的として建文帝の捜索があったといわれています。
靖難の変で敗れた建文帝は、南京で死んだと云われていたのですが、実は死体が確認されていませんでした。
当然、どこかに落ちのびて生きているのではないかと云う噂が常に在り、ヴェトナム方面で建文帝が生きているとの噂も在りました。
艦隊の指揮官に任命されたのが鄭和。
この人物は、宦官で永楽帝が宦官を使った一例です。
鄭和は面白い生い立ちで、彼の家は、モンゴル時代に中央アジア方面から雲南省に移住してきた様です。
雲南省はラオス、ビルマと国境を接する中国南部の辺境で、明朝の支配下に入った時、12歳の鄭和は明軍に捕らえられて、南京に連行され去勢されてしまいました。
やがて、即位する前の永楽帝、燕王に宦官として仕える事に成りました。
靖難の変の時には燕王を助けて活躍し、即位後も永楽帝に宦官として仕えます。
鄭和は大男で、身長180センチ、腰回り100センチと云いますから、可也の体格で、性格も剛胆だったので、永楽帝は彼を武将として抱えていました。
興味深いのは、鄭和がイスラム教徒だったことです。
鄭和の本来の姓は馬と云い、馬と云う姓はイスラム教徒に多い姓で在り、ムハンマドのムの音を漢字表記したものと推定されます。
鄭和の曽祖父の名前が、馬拝顔(バヤン)、バヤンと云う名は漢民族では在りません。
又祖父は、馬哈只(ハッジ)と呼ばれており、ハッジというのは、メッカに巡礼したことのある人に対する尊称です。
鄭和はイスラム教徒のネットワークや、出身民族の横の繋がりで、様々な情報網を持っていた可能性が在ります。その為に南海遠征の司令官に任命されたのでしょう。
インド洋を航海する時、星で緯度を測定するのですが、アラビア式測定器「カマール」を使用し、高度の単位として「イスバ」「ザム」というアラビア語を使用していました。
鄭和の艦隊は、アフリカ東岸に迄達し、第七回遠征では、メッカにも到達しました。
モンゴル遠征
永楽帝は、モンゴル遠征を五回行いましたが、モンゴル人を服属させることは出来ませんでした。
漢民族皇帝自らモンゴル方面に遠征するのは、前漢の劉邦以来です。
五回目の遠征が65歳の時で、帰る途中に崩御しましたが、戦争で即位して、戦争で他界した皇帝でした。
明帝国終わり・・・
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