2012/04/23

人類の軌跡その358:明帝国中期以降①

<明帝国中期以降その①>

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明朝沿岸部を襲う倭寇

◎北虜南倭

 15世紀中頃から、「北虜南倭」と伝えられる事態が、明朝に大きな被害と、軍事支出の増大による財政圧迫を招きます。

 北虜とは、北から攻めてくるモンゴル系遊牧民族の事で、モンゴル高原に退去したモンゴル族は、チンギス・ハーン直系の勢力をタタール、傍系で新しく勢力を伸ばしてきた部族オイラートと呼称する様に成りました。
15世紀中頃、オイラートにエセン・ハンと云う有能な統率者が現れ、勢力を伸ばしました。
エセン・ハンは、西のティムール帝国と東の明帝国を繋ぐ交易路を手中に治め、更に明と朝貢貿易を行い莫大な利益を得ていましたが、明が貿易を制限しはじめると、貿易拡大の要求を掲げて明に攻め込みます。
1449年、時の皇帝が正統帝、宦官の言動に動かされ、自ら軍隊を率いて出撃しますが、北京北方の土木堡で、モンゴル側の捕虜に成りました。
之を、土木の変と云い、エセン・ハンは中国との貿易拡大が目的の為、明を滅ぼす事態には発展しませんでしたが、皇帝が捕虜に成る事は明帝国の大失態でした。

 エセン・ハンの死後、オイラートは衰退を辿り、変わって16世紀後半タタールがモンゴル高原を統一します。
指導者はアルタン・ハン、彼も、中国との貿易を求めて、中国北部に侵入を繰り返し、1542年の侵入では、男女20万人を殺し、家畜200万を奪い、莫大な衣糧金銭を奪ったと記録されています。
毎年の様に、北部国境付近で甚大な被害が発生し、明朝側も国防に相当の努力をはらいました。

 北方遊牧民の侵入を防ぐ為に、国防費は増加し、現在残っている万里の長城は、この時代に建設されたものです。

 南倭は主に中国南岸地方で活動した日本の海賊です。
之は、前期倭寇(14世紀)と後期倭寇(16世紀)に別れますが、倭寇は、日本では足利幕府の時代です。
足利幕府は、三代将軍義満の時迄、非常に不安定な政権でした。
南北朝の政治的混乱が続き、地方は事実上の無政府状態で、幕府は地方の隅々迄、統制する力は在りません。
この様な時代背景の中、五島列島等の貧しい漁民達が、倭寇と成り、更に明は海禁政策を行い、民間人の海外貿易を許可せず、中国貿易を求める商人達が海賊行為を行ったとも云われています。
之が、前期倭寇にあたります。
従って、この時代の倭寇は、足利幕府が安定し、明との間に勘合船貿易が始まると終息を迎えます。

 応仁の乱後、足利幕府の統制が乱れ、再び倭寇が活動をはじめます。
之が、後期倭寇、中国南岸の港に来航し、貿易が上手く行かない場合、海賊として略奪を行う。
沿岸地方だけでなく、河川を遡り、都市を攻略して略奪を行う。
海上で、他の船を襲う海賊行為だけでは在りませんでした。

 「倭人の至る所、人民一空す」と云われ、人間迄拐い、後期倭寇の被害に明は苦しむのですが、この時代、倭寇の構成員は、ほとんどが中国人で、日本人は一割から三割と云われています。
現在の様な国境や国籍の意識は、当時の人達には存在せず、例えば、後期倭寇の大親分で王直と云い中国人が居ますが、彼の本拠地は五島列島でした。
当人達は、海の世界に暮らす者どうし仲間意識は存在しても、日本人、中国人と云う意識は存在しませんでした。

続く・・・

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