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2012/04/24

人類の軌跡その359:明帝国中期以降②

<明帝国中期以降その②>

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日本、対馬・壱岐に上陸した朝鮮軍

◎張居正

 北慮南倭の対策で、国防費が増加し、国家財政は大赤字に成り、永楽帝以来、明の皇帝は凡人が続いて、宦官の横暴がまかり通っています。
この状態を一時立て直したのが張居正、10歳で即位した万暦帝(在位1572年~1620年)の後見人として政治を担当した大臣です。
非常に剛胆な性格で、正しいと思った事は、反対に屈せず実行に移しました。
又、綱紀を粛正し、税金は取り立てを厳格に行い、浪費を戒め、官僚組織を引き締めます。
この結果、税の滞納率20%、年間100万両以上の赤字が、1576年には390万両の黒字に成ったと云います

 一条鞭法と云う新しい徴税方法がこの時期、全国に広がります。
さまざまな徴税項目が存在し、非常に煩雑な租税と力役を、それぞれ銀納化した制度で、徴税事務が簡素化され、里長クラスの農民の負担が軽く成りました。

 張居正が後見人を担当している時期に、彼の父親が亡くなりました。
父が亡くなれば、当然喪に服して仕事を休む事に成りますが、中国は儒教の本場です。
官僚は儒教道徳のお手本ですから、親が亡くなれば一年乃至二年は故郷に帰って喪に服し、仕事から離れるのが常識でした。
ところが、張居正は、皇帝に頼んで、「父の喪に服さず、正常の勤務をつづけよ」と命令を自分に出させます。
つまり、政務を継続したのですが、儒教道徳から見れば、前例の無い行動でした。
それ程、皇帝に使え、明朝の政治を引き締めた人物でした。

 張居正が約10年間宰相として政務を担当した間は、彼を批判できる人は誰も居ませんでした。
実績も上げていたので当然ですが、彼の死去した後、特に父親の喪に服さなかった事等が批判の対象となり、残された家族は弾圧されました。
又、張居正が存命中は、真面目に政務に臨んだ万暦帝も、彼の死後、急に政務に対して熱意を失い堕落した生活を送る様に成ったと云います。

◎明末期の政治

 張居正が建て直した明の財政でしたが、その後軍事費負担が再び増大し、急速に悪化します。
1592年から98年迄、豊臣秀吉が朝鮮を侵略し、日本では、文禄・慶長の役、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱と呼ばれています。
秀吉が朝鮮に戦争を仕掛けた理由は、種々存在する様ですが、この時期の秀吉は、中国を征服しようと真剣に考えたと思われます。
その為、中国への道筋にある朝鮮に協力を命じますが、朝鮮は、明朝の冊封国の立場ですから、秀吉の命令等に従う筈は無く、秀吉は朝鮮を罰するとの名目で、諸大名に命じて朝鮮侵略戦争を開始したのでした。

 当時、日本の武士は、戦国時代を経験し戦さ慣れしており強よく、鉄砲等を数多く保有し、朝鮮軍よりも武器で優れていました。
朝鮮の正規軍は、当初日本軍に連戦連敗し、明に救援を求めます。
朝鮮国は明の冊封体制に組み込まれていて、形式上、朝鮮国王は明国皇帝に対して臣下の礼をとっている為、朝鮮国の上に立つ明としては、助けを求められたら、之に応じなければなりません。
明の大軍が朝鮮半島に遠征し、ここで日本軍と刃を交えました。
最終的に、秀吉が死に日本軍は撤退するのですが、明はこの戦争で10万の戦死者と1000万両の出費を強いられます。

 更に、同時期に南方では少数民族であるミャオ族の反乱、北の国境の町、寧夏ではモンゴル人将軍ボバイの乱等、戦乱が相次ぎ、中国東北部にいた女真族にも動きが在りました。
彼等は明に服属していたのですが、日本軍の侵入で明軍が朝鮮半島に向かった間隙を抜い、部族を統一して急速に力をつけてきます。
1616年、女真族は後金国を建国し、明朝と対立します。

 明の皇帝は、財政赤字を克服する為に、正規の政府機関を使わず、私的に宦官を地方に派遣して、種々名目の新税を徴収しますが、宦官たちは、強引な方法で税金を集めたので、各地で混乱や、騒動が相次ぎました。
都市での商工業者の抵抗を民変、農村での抵抗を抗糧闘争と云い、小作料支払いを拒否する抗租闘争も活発になります。

 更に官僚の中にも派閥対立が生じ、宦官が政治に関わる現状に批判的で、清廉潔白な政治を実現しようとする官僚達が東林党を組織する一方で、宦官との交わりを強くする現実的な官僚達(非東林党)に分かれます。
東林党の志は立派なのですが、宦官達に弾圧され、非東林党との派閥抗争の結果、明の政治は更に乱れていきました。

続く・・・

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