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2012/04/25

人類の軌跡その360:明帝国中期以降③

<明帝国中期以降その③>

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李朝・李舜臣将軍・秀吉の倭軍を閑山島沖で撃破

◎朝鮮半島

 一時、モンゴル帝国に服属していた高麗は、中国に明朝が成立すると、明の冊封国となりました。冊封は、中国の王朝と周辺国との関係で、冊封国は中国に対して、臣下の礼をとり、出兵の要請に応じ、朝貢するなどの義務を負いますが、中国の保護を受ける事が出来ました。

 高麗は倭寇の侵入で衰退し、倭寇撃退に活躍した将軍李成桂が高麗を倒して新しい王朝を建てました。
これが朝鮮(1392年~1910年)であり、李氏の王朝なので李朝と呼び、地名と区別する為に李氏朝鮮とも呼称します。
首都は漢城、現在のソウルに定めました。
政治は中央集権的で、中国例に倣って科挙を行いますが、政治の中枢は両班(ヤンパン)という貴族階級が掌握していました。

 外交的には明の冊封国と成り、後に明が滅ぶと清の冊封を受けました。
儒学の中でも朱子学が奨励され、国教的な扱いを受け、朱子学的な倫理、行動が何よりも重んぜられる国に成ります。

 李氏朝鮮成立前後の倭寇の被害は、可也激しいものが在りました。
例として、1397年に慶尚南道晋州を襲った倭寇は、騎馬700、歩兵2000という規模であり、私達が想像する海賊とは、大きく異なり軍隊そのものでした。
九州付近の守護大名規模の人物が関わっているとも思えます。

 李氏朝鮮と足利幕府は外交関係が存在し、朝鮮通信使と云う使節が何度か日本に渡航します。
1429年に来日した朝鮮通信使・朴瑞生の帰国報告を紹介すると、

「倭賊嘗て我が国を侵略し我が人民を虜し、以て奴婢と為し、或いは遠国に転売し、永く還らざらしむ。
其の父兄子弟、痛心切歯するも、未だ讐に報いることを得ざる者、幾何人か。臣等の行くや、船を泊する処毎に、被虜の人争いて逃げ来たらんと欲すれども、其の主の枷鎖堅囚するを以て未だ果たせず。誠に愍れむべきなり。
日本は人多く食少なく、多く奴婢を売り、或いは人の子弟を竊みて之を売る。
滔々として皆是なり。(『世宗実録11、12乙亥』より)」

文意
 日本に行ってみると、倭寇に拐われ奴隷にされた朝鮮人が数多く居て驚きます。
通信使を見て、助けを求められますが、皆鎖につながれて逃げる事もできません。

 この時代から少し降って、戦国時代には、戦国大名間で敵の領地から人を拐い、奴隷として売ることが日常的に成りました。
奴隷は海外にも輸出されていて、南蛮貿易でポルトガル商人が日本で買いつける重要商品のひとつでした。
秀吉の朝鮮侵略でも多くの朝鮮人を奴隷として連行しています。

 李氏朝鮮の国王で、重要な人が世宗(在位1418年~50年)。
セジョンと発音し、世宗は「訓民正音」を制定しました。
現在のハングルの事で、それ以前迄は朝鮮半島で使用された文字は漢字だけで在り、民族の言語を表す文字は存在しませんでした。
ハングルは非常に合理的につくられた文字ですが、朝鮮では中国文化の影響力は圧倒的で、訓民正音制定後も公式文書は漢文でした。
ハングルが一般に広まるのは19世紀の末です。
因みにハングルの意味は「偉大な文字」であり、この様な名称で呼ぶ習慣は、朝鮮が日本の植民地に成った後でした。

 15世紀以降の朝鮮は、両班(ヤンパン)の党派闘争が続くのですが、朝鮮の政治を見ていると、政治闘争が朱子学の倫理と密接な関係を持って展開するので非常に解りづらいものが在ります。
党派党争は存在しても、流血の事態は多く在りません。

 16世紀末には豊臣秀吉の侵略を受け、壬辰・丁酉の倭乱が起こりました。
劣勢に立たされた朝鮮は明軍の救援を求めますが、水軍を率いた李舜臣(イスンシン)など、後世に名前を残した朝鮮人将軍も存在します。
多くの戦いに勝利をもたらした亀甲船は、船の上を亀の甲羅状に板で覆い、日本兵の斬り込みを防ぎ、側面の隙間から大砲を撃って攻撃を行いました。
海を渡って兵士に糧食を補給しなければならない日本側は、李舜臣率いる亀甲船の水軍におおいに苦しめられたのでした。

明帝国中期以降終わり・・・
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