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2012/04/27

人類の軌跡その362:清朝②

<清朝その②>

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李自成

◎明帝国の滅亡

 宦官の横暴や党派闘争による政治の混乱、増税等で明帝国国内では反乱が続発する様に成りました。
その代表が李自成の乱で在り、1630年代以降、流賊と呼ばれる反乱集団が多数発生しますが、李自成の反乱軍もそのひとつでした。
流賊は都市を攻略し略奪を働き、明朝の正規軍が現れると、直ぐさま退却し今度は全く異なった別の地方に現れ都市の略奪を繰り返します。
馬を移動手段とする為、行動範囲が広く、流賊と呼ばれました。

 李自成の反乱軍は、極初期には略奪集団と全く異なる部分は無く、集団が大きくなるに従い儒学者の参謀が付き、李自成に新しい王朝を建てる様に進言します。
李自成もその意見に耳を傾け、略奪を繰り返す事は王朝建設にはむしろ逆効果、殺人や略奪は行わず、貧民に施しを行い、民衆の中に根ざした運動を意識する様に成りました。

殺牛羊
備酒漿
開了城門迎闖王
闖王来時不納糧

(訳)
牛と羊を殺せ(食事の為に)
お酒の用意をしよう
城門を開いて闖王(李自成)を迎えよう
闖王が来たら税金を取られないぞ
(『中国の大盗賊』高島俊男、講談社現代新書)

 この様な歌を、配下の者に歌わせて流行させ徐々に、民衆にも人気が出て来ました。

 明朝が、全力で李自成軍を鎮圧しようとすれば、其れは可能と思われます。
ところが、明朝は李自成軍鎮圧に全兵力を投入出来ませんでした。
理由は、北の清軍に備えて国境を防衛する必用が在り、明の精鋭部隊は万里の長城の最東端、山海関に貼りつき、離れる事が不可能でした。

 間隙を突いて勢力を増した李自成軍は、1644年、40万の大軍で北京を占領します。
明朝最後の皇帝崇禎帝は宮殿の裏山で、自決しあっけない明帝国の滅亡を迎えます。
李自成は、明朝に変わって新しい王朝を建国し、混乱続く中、明朝の行政機構を掌握して、皇帝即位式の準備を始めました。

 山海関を守備する明軍の司令官が、呉三桂将軍で清軍との戦闘中に、北京から知らせが来て、明朝が滅亡した事を知ります。
彼は明朝に仕える将軍なのですが、李自成からの手紙も届きます。
その内容は、明朝は滅んだが、李自成の新王朝の将軍として引きつづき山海関を守れ、と。
 呉三桂は、流賊出身の李自成に仕える気等無く、一転清側に寝返り、清朝のもとでの高位高官を交換条件に山海関を開き、清軍を中国本土に導き入れました。
清軍は呉三桂を先導役に、北京に向かって進撃します。

 李自成は清軍を迎え撃ちますが、簡単に撃破され、清軍の強力さを悟った李自成は、あわただしく皇帝の即位式を済まし北京を脱出します。
その後を追うように、清軍が入城して北京の新しい支配者となりました。
李自成が北京を占領したのが3月19日、清軍の北京入城が5月2日、僅か一月半が李自成の天下でした。
このあと、李自成は西安に逃れ、翌年、更に逃亡の途中、山中で武装勢力に殺害されてしまいます。

 明から清への王朝交替は、単なる皇帝家の交替では無く、清は満州族の国の為、漢民族が異民族の支配を受ける事を意味しました。
この事件の主人公である呉三桂の行動はその後論議を呼びました。
何故、彼は李自成ではなく、清に味方したのか、種々の話が存在します。

 一般に伝えられている話が「女性問題」説。
呉三桂将軍には陳円円と云う美しい愛人が居り、彼女は北京の呉三桂邸に住み、山海関を守っている呉三桂とは離ればなれです。
李自成が北京を占領した時、呉三桂が一番気にしたのが、陳円円の安否で、部下を北京に派遣して様子を探らせ、李自成は評判の美女陳円円を既に自分の宮殿に連れ込んでいました。
怒り狂って呉三桂は、清側に寝返ったと云いますが、講談等でおもしろおかしく話された後世の逸話と思われます。

 1643年、ホンタイジ崩御、6歳の息子が清の皇帝に即位し順治帝と成りました。
実権を握っているのは摂政のドルゴン、ホンタイジの弟です。
ドルゴンの指揮のもとで、清軍は各地の抵抗勢力を平定して中国全土を支配しました。
但し、当時の満州族の人口は60万、兵力は15万、この規模の軍事力で中国全土を支配するのは、物理的に無理で、清朝は投降してきた明の漢民族の将軍達を積極的に利用し、呉三桂がその代表なのです。
統一後は、漢民族の将軍達を藩王として、中国南部地方の支配を任せ、呉三桂は雲南地方の藩王となりました。

 北京入城前後の清軍と行動をともにした日本人がいます。
1644年4月に越前三国を出港したあと、漂流して満州に漂着した日本船が在り、乗組員は満州人に助けられ、彼等と一緒に11月に北京に入りました。
その日本の漂流民が清朝の印象を書き残しています。
「御法度、万事の作法は、ことのほか明らかで正しくみえる。上下ともに慈悲深く、正直である。嘘をいうことは一切ない。金銀がそこらにちらかしてあっても、盗み取るものはない、という。これにくらべて北京の方が風紀も悪い」
満州族が持つ素朴さ、朴訥さを誉めています。

続く・・・
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