2012/04/28

人類の軌跡その363:清朝③

<清朝その③>

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鄭成功

◎清の全盛期

 順治帝を継いだのが、康煕帝(在位1661年~1722年)。
その後に続く雍正帝(在位1722年~35年)、乾隆帝(在位1735年~95年)の三代が清朝の最盛期であり、中国の長い歴史の中でも、平和で繁栄した時代です。

 康煕帝が即位した当時、まだ清朝の中国支配は不安定な面が存在していました。

 1673~81年に三藩の乱が勃発、呉三桂ら、藩王に封ぜられていた漢民族の将軍の反乱でした。
呉三桂の他に二名の藩王が反乱に加わった為この名前で呼ばれています。
清朝の支配が安定するに従い、大きな領土を持ちなかば独立国の様な藩王の存在は邪魔でした。
そこで、清朝は呉三桂らの領土や権限を停止しようと考えましたが、この事が反乱の大きな原因です。
呉三桂らは、「満州族の支配に反対する。滅んだ明朝を復活させるための戦い」と称して、自分の反乱を正当化しましたが、清が中国を支配したのは彼の寝返りで在り、その様な大義名分は、世論の支持を得る事は不可能です。
反乱軍は中国西南部を制圧して、一時は清朝に脅威を与えましたが、結局鎮圧されました。
結果、反乱が終息した後、清朝の支配はより強固なものに成っていました。

 1683年には鄭成功の台湾政権を滅ぼし、台湾を中国の領土に編入しました。
尚、清朝が北京に入城した時、中国南部には明朝の皇族を擁立した地方政権がいくつか誕生します。
清の中国支配に抵抗しますが、どの政権もそれほど大きな勢力に発展せず、すぐに清朝に滅ぼされていきます。
その中で最後迄、明朝の復活を唱えて清朝に反抗し続けたのが鄭成功でした。
この人物の父親は鄭芝龍と云い、密貿易に従事して日本にも来航しており、平戸の日本人女性との間に産まれたのが鄭成功なのです。
明が滅ぶと、海上から沿岸各地を攻撃して清に抵抗し、清朝は鄭成功勢力を孤立させるために、1661年遷界令をだして、沿岸住民を強制的に内陸部に移住させました。
この様な対策を実行する事事態、如何に鄭成功の力に手を焼いていたかという事です。

 因み、鄭成功は徳川幕府に幾度も使者を送り、援軍を要請しています。
幕府は、清朝側が優勢な事を知り、援軍を送る事は在りませんでしたが、明朝に忠節をつくして清に抵抗をつづける鄭成功は、母親が日本人と云う事も重なり、日本では有名に成りました。
近松門左衛門の『国姓爺合戦』という人形浄瑠璃があるのですが、鄭成功が主人公です。

 遷界令が発布されると、鄭成功は拠点を台湾に移します。
当時台湾にはオランダ人がゼーランディア城に要塞を築いていましたが、鄭成功は2万5千の兵力でゼーランディアを攻略して、オランダ人を追放し、ここに独自の政権を作りました。
鄭成功の台湾政権であり、翌年、鄭成功自身は死去しますが、その後20年間、台湾政権は大陸の清朝に攻撃を加え続けていたのです。
清朝には、当初海軍力が存在せず、台湾を攻略する事が出来ませんでした。
この台湾政権を滅ぼして、台湾島を併合したのが、1683年、康煕帝の時代でした。

 対外的には、1689年、ロシアとの間にネルチンスク条約を締結し、対等な条約で国境線を確定しました。
更に、中央アジアで大きな勢力を有していた遊牧国家ジュンガルと戦い外モンゴリア地方を領土に併合します。

 康煕帝は、自ら上記の反乱鎮圧等を指導し、指導力は抜群でした。
それだけでなく理想の皇帝に成る為、常に努力していた事で有名です。
早起きで、早朝の4時か5時頃には、政務を司り、午前中に政務を終えて、午後は学習の時間に成っていました。
儒学だけでなく、イエズス会の宣教師から、天文学、数学等も学びました。

彼の姿をイエズス会の宣教師ブーヴェが次の様に描いています。
「康煕帝は孔子の著書を大半、暗記されておられますし、シナ人が聖書と仰いでいる原典もあらかた暗唱されております。…皇帝はシナの古代大家の教説に対する尊敬を示されようとして親しく序文を執筆されて、注釈書の巻頭に掲げられ、御名をもってこの書を印刷せしめられたのであります。(ブーヴェ『康煕伝』より)」
 この本は、ブーヴェがルイ14世に献上したもので、ルイ14世に理想の君主像として康煕帝をお手本にして欲しいと思っての事でした。
中国歴代皇帝の中でも、指折りの名君と評価され、漢の武帝、唐の太宗、と並んで語られる事の多い皇帝です。

続く・・・
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