<清朝その④>
紫禁城◎内政 康煕帝を継いだのが息子の雍正帝、康煕帝の四男で、あまり目立たない人物でした。
康煕帝の後継問題は混乱が在り、康煕帝臨終の時に次期皇帝に指名したのが雍正帝なのですが、この部分は謎に包まれています。
即位した雍正帝は、後継者問題で今後混乱がないように「皇帝密建の法」を定めました。
これは、早い段階で皇太子を決定すると、他の皇子たちが陰謀などをめぐらせる為、皇帝は後継者を決めても公表せずにその氏名を紙に記して、秘密の箱に入れておき、皇帝が崩御後、はじめて箱が開かれ次の皇帝が発表されるというものです。
従って、皇帝は息子たちの日頃のおこないを見て、一度決めた皇太子の名前を書き換える事も可能であり、誰にも公にしない為、書き換えが政治的な混乱や陰謀を生むことも在りません。
長男が後を継ぐ原則も存在せず、優秀な息子を指名可能で、結果清朝の皇帝はこの後も比較的優秀な人物が続きます。
雍正帝は父親の康煕帝の様な華やかさとは無縁の人物ですが、実に真面目に皇帝としての職務を全うし、清朝の支配体制を引き締めました。
例えば、清朝の地方長官は、行政組織を通さずに手紙を直接皇帝に送る事ができました。
雍正帝は地方情勢全般について皇帝に手紙で報告する様、命じていたので毎日、全国から手紙が届きます。
日照り、農作物の不作、洪水被災、米価の上下等、雍正帝は、是等地方からの報告を全部読んで、その総てに指示事項まで付け加え返事を書くのです。
地方の役人も、報告を送らないと怠慢と思われますから、真面目に働かざるを得ないのです。
又、この様な話も伝わっています。
ある時、大臣が四人集まって麻雀をした。
雍正帝は官僚には賭事を禁じていたのですが、やっぱりやめられません。
徹夜で、牌を振っていると、牌が一枚無く成り、いくら探しても、出てこないので、大臣たちは、そこでお開きにしました。
翌日、大臣のひとりが雍正帝の前に進み、一通り政務の話を終わった後、雍正帝が訪ねました。
「昨晩、おまえは何をしていた」大臣は、皇帝に嘘をつくことができず、正直に賭け麻雀をしていたと告白しました。
すると、雍正帝は袂から麻雀牌を一枚とりだし、それを大臣に渡して、「以後、気をつけよ」と告げます。
それは無くなった牌だったと云います。
大臣の家に仕えている召使いの誰かが、皇帝の密使なのですが、この様な話は可也現存しており、官僚たちが緊張しながら、政務を遂行している雰囲気が伝わってきます。
◎雍正帝時代の政治的出来事1)軍機処の設置
雍正帝時代に、軍事機密を扱う機関として設置されたのが軍機処です。
やがて内閣に代わって軍事・行政の最高機関となり、軍機処の長官を軍機大臣と云います。
後に総理大臣の役割を兼務する地位と成りました。
因みに清は明の政治機構を受け継いで、皇帝独裁政治の為、軍機大臣は皇帝の補佐役です。
2)文字の獄
思想統制で、康煕帝もおこなっていますが、雍正帝が特に有名です。
清朝の皇帝を批判するような文章はいっさい許さず、例えば科挙の試験問題に「維民所止」という一節が在り、これを見て雍正帝は出題した学者を処刑しました。
何故なのでしょう。
「維」と「止」の上にそれぞれ、「なべぶた」と「一」をつけると「雍」「正」に成り、つまり、この一節は雍正帝の頭を切り落とし、さらに二文字を「民所」で離して、雍正帝の胴を二つに裂いている、と云う意味と考えられ当時は立派に反逆罪に成りました。
清朝は満州族の王朝なので、弾圧は厳しかく、漢民族の儒学者を自由奔放にする事を警戒した様です。
3)地丁銀の全国実施
地丁銀は税制です。
明の一条鞭法を更に簡素化し、成年男子にかかる丁銀という税金を、土地にかかる税に組み入れて一本化しました。その結果、税の銀納化が一段と進んだのです。
4)キャフタ条約(1727年)
モンゴル北部で未確定だったロシアとの国境線を確定しました。
即位した時に既に45歳の雍正帝は、清の政治を引き締め在位14年で崩御、後を継いだのが乾隆帝です。
乾隆帝は、雍正帝が固めた土台の上で、対外関係に力を注ぎました。
各地に遠征しますが、重要なのは、チベットと、東トルキスタンを領土にくわえた事です。
この時代に、中国の領土は史上最大と成り、現在の中華人民共和国の領域の原型が形成されました。
ヨーロッパとの貿易は盛んに成りますが、乾隆帝は貿易の管理と治安の維持を目的として、貿易港を広州のみに限定しました。
これは、自由に通商を行う意図の在るイギリスを刺激し、外交問題に発展して行きます。
続く・・・
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