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2012/05/24

人類の軌跡その384:フランス革命・激動期の始まり②

<フランス革命⑦>

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ヴァレンヌ逃亡事件

◎ヴァレンヌ逃亡事件

 事件を起こしたのは国王ルイ16世。
1791年6月、国王は亡命を企てました。
王妃マリー・アントワネットの生家オーストリアへ逃れ様としたのです。
王妃の愛人で、スウェーデン貴族フェルゼンを中心に亡命計画が立案されました。
以前から、国王が国外逃亡を計画しているとの噂が在り、宮殿の周辺には警備の兵が詰めていたのですが、警備担当責任者ラファイエットの粋な図らいで、フェルゼンが王妃の部屋へ出入りする入口だけは、警備兵が居なかったと云います。

 国王一家はこの出入口を使って宮殿を抜け出し、用意してあった馬車に乗って国境の町メッツに向かいました。メッツには、亡命を手助けする将軍が待っている手筈です。
馬車に乗るのは国王、王妃、二人の子供と王の妹、子供の教育係。八頭立ての大きな馬車ですが、この馬車に多くの荷物を詰め込み、王妃の衣装、ワイン等、重量超過で馬車は当然スピードが落ちます。

 無事にパリから出られたのは良いのですが、馬車の低速に予定の時間は、どんどん遅れて行きます。
王様の鷹揚さなのか、危機感がなく、途中で古くからの知り合いの屋敷に立ち寄りながらメッツに向かいます。
沿道の要所には軍資金輸送の警備との名目で、亡命を助ける為の兵士が警戒に応っていたのですが、途中から予定の時間より相当に遅れた為、警備の兵が引き揚げてしまい、挙句には連絡が上手く出来なくなりました。
更に、ある村を通過する時、王が窓から顔を出して、待っていた警備部隊の指揮官に声を掛けたのですが、其の姿を目撃した村人がいたのです。

 「王が、この様な場所に居るのは不自然、国外への亡命を画策しているのではないか」、との知らせを聞いた革命派の軍人が国王を追います。
軍人にも、王に忠誠心を持っている王党派軍人と、革命に理解を示す軍人と両方いる訳ですが、この段階では多くの指揮官クラスの軍人は、国王に同情的です。

 国王の馬車がヴェレンヌの町に来ました。
この町で味方が替え馬を連れて待っている段取りに成っていましたが、王の到着が遅く、もう夜に成っています。
味方の部隊が見つからず、一行は町に入って、住民をたたき起こして馬の場所を尋ねました。(間抜け)
突然の騒動に、付近の住民が集まり、国王の一行を取り囲み、追ってきた革命派の軍人も合流します。
最初、国王は自分の身分を隠しているのですが、遂に国王と認め、すぐにパリに連絡され、翌日国王一家はパリに連れ戻されました。

 王に対する国民の信頼はこの事件で一瞬に吹き飛んでしまいました。
国王ルイ16世の身柄、立場が問題に成りましたが、取敢えずそのままとしました。
国民議会では憲法が出来上がりつつあって、これが立憲君主制なのです。
穏健な形で、革命を一段落させようと云う事と、もう一つの理由は、国王に対して過激な処罰等を行うと、諸外国がフランスに攻撃を行う可能性が在った為です。
国王を身分を守る事は、言い換えれば、フランスを取り囲む諸国に対する人質です。

 事実、ヴァレンヌ逃亡事件の後、1791年8月には、オーストリアとプロイセンが「ピルニッツ宣言」を行いました。

続く・・・
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