2012/05/25

人類の軌跡その385:フランス革命・激動期の始まり③

<フランス革命⑦>

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現在のピルニッツ宮殿

◎8月10日事件

 1ヶ月後の9月、正式に憲法が制定されました。
1791年憲法と云い、その特徴は、立憲君主制と制限選挙制です。
平民でも一定以上の税金を納めていない者には、選挙権は与えられませんでした。
革命によって、平民が主役の時代に成りましたが、一部の豊かな平民が政権に参加できるだけで、多くの一般民衆は、不満を持っています。
この頃の民衆の生活は、インフレで喘ぎ、封建制度はなくなっても生活は苦しいままで、政府に対する不満は増大の一途を辿っていたのです。

 フランス革命の発端は、政府の財政難ですが革命後、政府は教会の財産、土地を没収して国有財産化しました。
そして、この土地を売却して財源確保に努めますが、土地が思うように売れず、土地を担保にしてアッシニア紙幣を発行しました。
処が、この紙幣、発行超過でインフレが発生し、物価が高騰、庶民生活は一層苦しくなりました。

 又、フランスから外国へ亡命する貴族が増加し、政府は亡命した貴族の土地財産も没収していきます。
諸外国は、この様なフランスの成りゆきを垣間見て、正しく権力が国王や貴族から、平民階級に移行していく事を実感します。
自国でも、この様な革命が勃発すれば、同様な結果を招いてしまうだろう、今の内に、フランスの革命政府を打倒しなければ成らないと考えます。
ピルニッツ宣言は、その様な諸外国の思惑の所産でした。

 1791年10月、憲法に基づき制限選挙が実施さら、新しい議会が成立しました。
これを立法議会と云い、この議会ではフイヤン派とジロンド派の勢力が対立しました。
フイヤン派は、立憲君主主義を守ろうと考える穏健なグループですが、ジロンド派は共和主義を主張します。
共和主義とは、国王無しの政府を意味しています。

 「ピルニッツ宣言」が出され、この段階でフランス政府と諸外国との対立は激化し、特に、マリー・アントワネットの生家であるオーストリアとの対立は激しものでした。
革命を守る為に諸外国と戦争すべきとする世論が盛り上がり、貧しい市民や農民の暴動がこの頃盛んになります。政府としては、庶民の不満を戦争で逸したい魂胆も在ります。

 一方、国王ルイ16世も、戦争に積極的でオーストリアとの開戦を主張しますが、国王は、戦争でフランスが負けることを期待しているのです。
革命政府が崩壊すれば、自分が元の絶対主義の国王として権力を取り戻せるのですから、議会で開戦を主張し、オーストリア皇帝には密かに連絡を取り、フランスの革命政府打倒を要請しているのです。

 1792年4月、ついに、フランスはオーストリアに対して宣戦布告をし、ベルギー国境でオーストリア軍との戦闘が始まりました。
戦いは、フランス軍の連戦連敗で、オーストリア軍、プロイセン軍は国境を越えてフランス領内に進撃してきます。
フランス軍は一方的に弱く、その理由は、指揮官が激減している為、何百何千という兵隊を動かすには、それなりの技術と経験が必要で、指揮官クラスの軍人である士官は、皆訓練を受けた貴族ですが、革命以来彼等の多くが亡命しています。
1万2千人とも云われる士官の半数が亡命し、指揮系統が崩壊、残っている士官も、革命政府に協力的な訳ではなく、戦わずに降伏する部隊も居る程でした。
ルイ16世は、自分に同情的な士官に対して、負けるように指示していたとも云われ、マリー・アントワネットは敵方に、フランス軍の作戦を漏らしていたとも云います。

続く・・・

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