<フランス革命⑨>
ルイ16世の処刑◎国民公会 8月10日事件で、王権を停止すると同時に、新しい議会を開く事が決められ、立法議会は立憲君主制の1791年憲法を基準としていましたから、新憲法を制定する為の議会が1792年9月に成立しました。
この議会が、国民公会で在り、男子普通選挙で選出された議員で構成されていますが、ここで普通選挙は、財産や納税額で選挙権を持つ人を制限していません。
8月10日事件は下層市民の力で成功し、対外戦争の危機を乗り切る為には、下層市民の力を結集しなければ成りませんでした。
国民公会は、王政の廃止と共和政樹立を宣言しました。
共和政は国王や皇帝の存在しない政治制度で、これ以後のフランスの政治体制を第一共和政と云います。
最大の問題は、ルイ16世の処遇でした。
王政が消滅した今、彼を如何なる処遇にするか裁判が始まり、王宮の隠し戸棚から、国王が外国の使節と密かに交わしていた文書が多数発見され、国王がフランス政府と国民に対する背信行為は、十分立証できます。
結局、賛成387票、反対360票で死刑の判決が下りますが、賛成387票のうち、26票は条件付き賛成と云う内容で、それを除けば、361票対360票と云う僅差な評決でした。
1793年1月21日、パリの革命広場で二万人の市民が見守るなか、国王は断頭台の露と消えました。
最後の言葉は、「私は無罪だ。私は敵を許そう」と言ったと云われていますが、国王の言葉に、市民が動揺しては良くないので、最後の方の言葉は、兵士の鳴らす太鼓の音にかき消されて良く聞こえなかったと云います。
10月には王妃マリー・アントワネットも死刑に成ります。
マリー・アントワネットは心労で髪が真っ白に成っていたと云いますが、長い髪は短く切られています。
断頭台での処刑は、髪が長いと邪魔に成る為短く切られ、その頭には、市民がつける帽子をかぶらされていました服装は良く解りませんが、質素な物の様で、後ろ手に縛られて馬車の台に座らされて、処刑場に向かいました。
このころは政治の変動が激しくて、彼女の処刑はあまり話題にものぼらなかったようです。
国民公会がルイ16世を処刑した事は、諸外国に衝撃を与え、これを発端に、反フランス、反革命のヨーロッパ諸国の軍事同盟で在る、第一回対仏大同盟が組織され、この同盟は1793年から97年迄存続しました。
参加国は、イギリス、ロシア、オーストリア、プロイセン、スペイン、オランダ等、ヨーロッパの主要国で、どこの国の王家も、国王を処刑する行為を見過ごす事が出来ませんでした。
対仏大同盟の結成を呼びかけたのは、首相ピットを中心とするイギリスで、そのイギリスもピューリタン革命、名誉革命を経験し、国王を処刑した過去も在るのですが、なぜ対仏大同盟の中心に成り得たのでしょうか。
実は、フランス軍はヴァルミーの戦いの後、優勢に転じて、国境を越えて進軍し、1792年の11月にはベルギーを占領し、ここで封建制を廃止します。
之は革命の輸出であり、別の見方をすればフランスが領土を拡大して、占領地域に自国の政治制度を押しつけていたのです。
フランス軍は、次はオランダに進出するかもしれません。
イギリスにとっては市場を奪われかねず、特に当時のオランダは、金融市場の中心で、ここをフランスに奪われる事は断固阻止する為、すなわち経済的な利害関係からフランスを警戒していたのです。
やがて対仏大同盟との戦争が国境線ではじまり、フランスの対外的危機は深まります。
続く・・・
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