<フランス革命⑬>
テルミドールの反動 ◎テルミドールの反動 1794年7月、終に国民公会で、ロベスピエールの逮捕が決議され、ロベスピエールはパリ市庁舎に逃げ込みますが、武装したパリ市民を味方に付けて、国民公会に反撃しようと考えたのです。
市庁舎の一室で、パリ市民への指令書を書いていると、そこに国民公会から差し向けられた兵士が踏み込んできました。
ロベスピエールは机の中からピストルを掴み、振り向いて反撃をしようとしますが、逆に兵士の撃った弾で顎をうち砕かれてしまい、ロベスピエールの顎から、血が滴り落ちました。
この時の、血染めの命令書が現存しています。
ロベスピエールは逮捕され、サン・ジュストらと共に翌日には処刑されました。
ロベスピエールのグループとして処刑された人数は108人にのぼります。
ロベスピエールの逮捕と処刑で、ジャコバン派の独裁と恐怖政治は終わり、この事件を「テルミドールの反動」と云います。
テルミドールは革命暦で7月を表しています。
ジャコバン派独裁が終焉を迎えた背景として、独裁当初は、外国軍の侵攻、内乱や経済危機が在り、この危機を乗り切る為には独裁政治しかない、と云う意識が国民には在りました。
しかし1794年に成ると、戦況は好転、物価も安定して、危機は山場を越え、ジャコバン派独裁の恐怖政治を、もう我慢する必要が無くなったと国民は感じ始めていたのです。
◎革命の終幕 多くの歴史学者は、1789年に始まったフランス革命は、「テルミドールの反動」で終わると考えています。
確かに、「テルミドールの反動」以降は、民衆が政治の前面に登場する事は無く成り、武装した下層市民の政治運動は下火に成ります。
運動の指導者が殆ど処刑されましたから、ジャコバン派独裁で、フランス革命の政治的試みは、終点迄行き着き、今度は、ジロンド派が国民公会に戻り、再び上層市民が政治の主導権を取り戻します。
1795年には新しい憲法が制定され、下層民を排除した制限選挙によって新しい政府が樹立されました。
この政府が総裁政府で、富裕市民、土地所有農民の利益を代表し、財産を持っている人の為の政治を担いました。
5人の総裁が行政を担当し、独裁を回避する為に5人の総裁を設置しましたが、逆に指導力の弱い政府と成り、総裁政府の弱点でした。
又、恐怖政治が終焉を迎え、政治的な緊張が緩む一方で、政府転覆の策謀が繰り返され、政局は非常に不安定に成りました。
その一つが、王党派の策謀で、国王による政治と貴族社会を復活させようとするグループです。
総裁政府は、ジャコバン派の様に過激では在りませんが、フランス革命の成果を引き継いでいますから、王党派は許すことの出来ない政敵でした。
バブーフは、下層市民の立場から政府転覆を企て、事前に計画が漏れて反乱は失敗しますが、一種の共産主義社会をめざしていた点で、思想的に重要視されています。
バブーフは、極少数のメンバーでの武装蜂起を計画しましたが、ベルサイユ行進や8月10日事件の様に、市民大衆の直接行動が政治を動かす時代は、もう終わっていたのです。
総裁政府の下で、国民は強力な指導者を求めはじめ、そこに登場するのがナポレオンなのです。
フランス革命・終わり・・・
スポンサーサイト
コメント