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2012/06/06

人類の軌跡その395:ナポレオンの生涯④

<ナポレオン・ボナパルトその④>

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エジプト遠征

◎ナポレオンの登場その④

 フランスの国境近くに迫ってくる外国軍と戦闘を行うのでは無く、何故エジプトなのでしょう。
総裁政府の指導者達も、何故エジプト?と思ったようです。
ナポレオンは云う。
「フランスの敵は常にイギリスである。第一回対仏大同盟もイギリスの主導で結成された。イギリスに打撃を与えなければ、フランスの安定と発展はない。そのイギリスは植民地インドとの交易で利益を上げている。エジプトはイギリスとインドをつなぐ中継地である。従って、エジプトをフランスの支配下に置く事で、イギリスに打撃を与える事ができる。」
現実には、フランスがエジプトを掌握しても、イギリスが如何程の打撃を受けるか、未知数ですが、ナポレオンは、反対論を押し切ってエジプト遠征を認めさせました。
その兵力は5万8千人。

 ナポレオンの主張は、イギリスに大きな影響を与えるものでは無く、エジプト遠征は最終的に、ナポレオンの名誉欲、功名心から計画されたと思われます。
ナポレオンは、この頃既に自分自身を英雄と信じて、古代ギリシアの英雄アレクサンドロス大王と自分を重ねており、アレクサンドロスも東方遠征を行って、エジプトを征服した様に、自分も同様の行為を行ったと思われます。
アレクサンドロスは東方遠征の時に、学者を大勢引き連れて行きますが、ナポレオンもそれに倣って、考古学者など165人を同行させました。
当時、ヨーロッパでは、オリエントブームで、エジプトに対する関心も高まっていた様です。
ナポレオンに同行した学者達が、エジプトでロゼッタ=ストーンを発見したのは有名な話です。
ロゼッタ=ストーンの碑文から古代エジプトの神聖文字が解読されました。

 フランス軍は、エジプトでもピラミッドの戦いと呼ばれる会戦で勝利を収めていますが、この戦いの前にナポレオンは兵士に演説しています。

「ピラミッドの上から四千年の歴史が諸君を見下ろしている」


 この時期のエジプトはオスマン・トルコ帝国の領土で、エジプトでフランス軍と戦ったのはマムルークと呼ばれる将軍達でした。

 イギリスとの戦いは、陸軍では、フランス軍に太刀打ちできませんが、海軍は強く、イギリス海軍は、エジプトのアブキール湾に入港していたフランス海軍を攻撃して、これを撃滅させました。
艦船がなければ、フランスに帰る事も出来ず、ナポレオンのフランス軍は、エジプトに孤立する事になります。
更に、イギリスは、オーストリア、ロシア、オスマン帝国等を召集して、再び第二回対仏大同盟を結成します。

 この結果、再び諸外国の軍隊がフランス国境に迫り、イタリアではフランス軍がロシア軍に敗北します。
危機の中で、総裁政府と議会の対立は激しくなり、フランスの政情は不安定になりました。
本来、総裁政府は強い指導力を持たず、頻繁に政変が起きていましたから、不安定な政情の中で、強力なリーダーシップを持った指導者を求める気運が高まってきます。

 エジプトで孤立しながらも戦い続けていたナポレオンの下に、フランス国内の情勢が伝えられると、彼は、僅かな側近だけを引き連れてエジプトを脱出してフランスに向かいます。
政府が、ナポレオンに帰還命令を出した訳でも無く、ナポレオンの勝手な行動で、明らかな軍紀違反です。
自分の指揮する部隊を、遺してフランスに戻る行為は、責任ある軍人として在り得ません。
ナポレオンは、軍人ではなく、政治家として行動し、この機会に自分が権力を握ろうと決断したのです。

 1799年11月、パリに戻ったナポレオンは、弟の協力を得て、合法的に権力を掌握しようとしますが、上手くいかず、軍の力を背景に、総裁政府を倒して権力を握りました。
この事件をブリュメール18日のクーデターと呼び、これ以後、1814年迄、ナポレオンがフランスの独裁者として君臨する事になります。

続く・・・
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