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2012/06/08

人類の軌跡その397:ナポレオンの生涯⑥

<ナポレオン・ボナパルトその⑥>

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トラファルガー海戦

◎ナポレオンの大陸支配その②

 ナポレオンの野心は留まる所を知らず、1804年、ナポレオンは皇帝に即位しました。
皇帝としての呼び名はナポレオン1世、これ以後、1814年迄のフランスの政治体制を第一帝政と呼びます。

 皇帝は世襲の地位ですから、フランス革命の民主主義的な理念と矛盾します。
その為、ナポレオンは、即位前に国民投票を行い、「余が皇帝になる事に賛成か、反対か?」と、国民に問うています。
結果は圧倒的賛成多数、形式的ですが、革命以来の民主的伝統は辛うじて維持されて様に見えます。

 ナポレオンの即位は、周辺諸国を刺激し、イギリスの主導で第三回対仏大同盟が結成され、オーストリア、ロシア、スウェーデンがこれに参加します。
イギリスはアミアン条約を破棄し、フランスと諸外国との戦争が再会されました。

 フランスの主敵はイギリスですから、まず、ナポレオンはイギリス上陸作戦を実施します。

 1805年10月、33隻のフランス艦隊がスペインのカディス港から出撃しますが、直後にイギリス海軍と遭遇して、トラファルガーの海戦が発生します。
イギリス艦隊は27隻で、艦船数では劣勢でしたが、圧倒的な勝利を収めます。
フランス側は、沈没3、捕獲17、逃亡13隻、これに対して、イギリスの喪失船は皆無という結果でした。
この時、ナポレオンは、パリから指令を出しており、作戦の直接の指揮は執っていません。
海軍の指揮は陸軍とは全く別のものなのです。

 イギリス艦隊の司令官はネルソン提督でした。
提督は、戦闘中、常に甲板の上に出て、自分の姿を部下の水兵達に見せ、味方の志気を高めていました。
姿を現せば、当然敵から狙い撃ちされる為、非常に危険で、実際、以前の戦いで、右目と右腕を失っています。
トラファルガー海戦時も、部下達は甲板に立たない様、願うのですが、いつもの方針を変えず、その結果、海戦では勝利を収めますが、自分自身は戦死してしまいます。
ネルソン提督は、イギリスの英雄に成りました。
現在、ロンドンのトラファルガー広場には、ネルソン提督の像がフランスの方を向いて立っています。

 海軍が大敗した結果、ナポレオンはイギリス上陸作戦を諦め、戦争で勝ち続ける事こそ、ナポレオンが人心を惹きつける手段の為、この敗戦を、次の大勝利によって帳消しにしなければなりません。ナポレオンは自ら軍隊を率いて、オーストリアに進軍します。

 トラファルガー海戦の敗戦から二ヶ月後、1805年12月、アウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシア連合軍を撃破、オーストリア・ロシア連合軍の兵力9万、フランスは7万4千と云う劣勢での勝利でした。
この戦いには、オーストリアとロシアの皇帝も直接参加していたので、ナポレオンも合わせて三人の皇帝が戦場で相まみえたということで、三帝会戦とも呼ばれています。

続く・・・
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