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2012/06/09

人類の軌跡その398:ナポレオンの生涯⑦

<ナポレオン・ボナパルトその⑦>

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アウステルリッツの戦い

◎ナポレオンの大陸支配その③

 アウステルリッツの戦い以後、ナポレオンはヨーロッパ各地で勝利を収め続け、イギリス、スウェーデン、オスマン帝国以外の地域をほぼ勢力範囲に収めます。
そして、フランスの利益にかなうように、国境線を引き直し、属国を建設し、属国に出来ない、オーストリアやロシア等の大国は、同盟国としてフランスの影響下に置きました。
所謂ナポレオン帝国の形成です。

 1806年、神聖ローマ帝国を解体し、ドイツの小国を集めてライン同盟を組織し、フランスの支配下に置きます。
名目だけの存在でしたが、千年続いた神聖ローマ帝国が消滅する事は、中世の封建社会が終わる象徴的な出来事で、これによって、オーストリアのハプスブルク家は神聖ローマ皇帝の称号を失い、ただのオーストリア皇帝になります。

 最後迄ナポレオンに抵抗していたプロイセンとロシアも、1807年のティルジット条約でフランスに屈服し、ナポレオンは、プロイセン領土の半分を割譲し、この地にワルシャワ大公国を建設、フランスの属国とします。
 ナポレオンは、自分の兄弟等の身内をオランダやイタリア、スペインの国王に任命し、ヨーロッパ大陸をほぼ支配下に収めました。

 この間、1806年、プロイセンに勝利し、首都ベルリンに入城したナポレオンは、ここで非常に重要な命令を出しています。
大陸封鎖令、別名ベルリン勅令、と云われる法律で、ナポレオンの支配下、及び同盟関係の諸国に対して、イギリスとの貿易を禁止する法律でした。

 軍事的にイギリス征服を諦めたナポレオンは、ヨーロッパ大陸との貿易からイギリスを排除する事で、経済的にイギリスを追いつめようとしたわけです。
これは、ナポレオンの戦争が最終的に何を目標にしていたかを示す大事な法律で、フランス産業の発展が究極の目的です。

 ナポレオンは、フランス皇帝となり、ヨーロッパ全域を支配下に収めました。
ナポレオンはヨーロッパ最高の権力者に成るのですが、古い伝統と格式を持つヨーロッパ各国の貴族から見れば、コルシカの田舎貴族に過ぎません。
ナポレオンは伝統と格式をその手中に収めたいと願います。
もうひとつが、後継者問題で、皇帝の地位を継がせる男子を願っていました。
ナポレオンとジョセフィーヌとの間には子供が無く、後継者を産んでくれる若い皇后が欲しい、と考えました。

 この二つの問題を、一挙に解決する為に、1810年、ナポレオンは、オーストリア皇帝の娘、ハプスブルク家の皇女マリー・ルイーズと結婚します。
マリー=ルイーズ、18歳、ナポレオン、40歳です。
完全な政略結婚で、ナポレオンには、ジョセフィーヌという妻が居ます。
マリー=ルイーズにとっては、ナポレオンは、理解不可能な、ただ恐ろしいだけの男で、二人の間にどれ程の感情の繋がりが在ったかは良く分かりません。
しかし、彼女は結婚の翌年には、男子を出産しました。

 この時期が、ナポレオンの絶頂期です。

続く・・・
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