人類の軌跡その402:ナポレオンの生涯⑪
<ナポレオン・ボナパルトその⑪>

モスクワ制圧
◎運命のロシア遠征
1812年5月、ロシア遠征が始まり、ナポレオンの兵力は60万、その総てがフランス兵では無く、24万はフランスの属国、同盟国から動員した兵員で、最初から士気は高く在りませんでした。
ナポレオンが率いる大陸軍が、ニーメン川を渡りロシアの領土に侵入した時の兵力は47万5千。
ナポレオン軍はロシア軍を捕捉する為に猛スピードで行軍を行い、一日60キロの距離を、30kgの装備を背負って行いました。
6月ですが、当時既に猛暑を迎え、この行軍速度に追従できない兵士が次々に脱落していきましたが、その兵士達を見捨てて行軍が続きます。
最初の二日間で5万人の兵士が脱落したと伝えられます。
ロシア軍は、一旦は国境近くに兵力を集中しますが、ナポレオン軍が迫ると退却を開始します。
ロシアの兵力は約20万、倍以上のナポレオン軍に正面から挑んで勝てる訳も無く、逃げ出したのですが、ナポレオン軍は、追跡を続けます。
しかし、ロシア軍は退却する際に、畑などを焼き払う焦土作戦を展開し、ナポレオン軍は食糧を現地調達できません。
又、ロシア農民も協力的では無く、今回のナポレオン軍は解放軍などではなく、侵略軍だと見抜かれていますから、以前のイタリア民衆の様にフランス軍に好意的では在りませんでした。
8月、スモレンスクに到達した時には、ナポレオン軍の兵力は15万5千に減少しています。
この時点で、一度も戦闘らしい戦闘は無く、飢えと疲労と逃亡で激減した結果でした。
9月、後退を続けたロシア軍は、首都モスクワの手前ボロディノで、初めて本格的な会戦を行います首都防衛の為なのですが、結果的に敗走する事と成り、モスクワを放棄して更に東に退却してしまいます。
この時、ロシア皇帝からモスクワ市民迄、総てが避難しました。
9月14日、ナポレオン軍は無人となったモスクワに入城します。
ナポレオンが11万の将兵を引き連れて、モスクワに進駐した時、街の中は殆ども抜けの空で、僅かの残っている人間は、動かすことの出来ない、病人、負傷者だけでした。
当時30万人を数えた大部分の市民は、食料、牛馬、馬車、更に芸術品や貴重な品々を移動可能なものは全てを伴って退却した後であり、間髪をいれず、市内十数か所から、一斉に火の手が上がり、モスクワは三日三晩燃え続け、四日目に降りだした雨の為に漸く鎮火したものの、市内の7割は灰燼に帰しました。
ロシア人による、焦土作戦の成果でした。
この結果、フランス軍将兵の食糧や宿舎にも苦労する始末でしたが、敵国ロシアの首都(実際の首都はサンクトペテルブルグ)を制圧した事は事実で、ナポレオン軍の勝利でした。
ナポレオンはモスクワから、北方に退去したロシア皇帝に降伏勧告の文書を送ります。
外交交渉が全く進展しないまま、モスクワで待機を続け、9月30日、一つの報告が、ナポレオンの本営に壊滅的な報告をもたらします。
ルーマニアで、トルコ軍と交戦していると信じていた、ロシア軍精鋭5万が、モスクワの西方640kmの地点に到達し、フランス軍の補給線を遮断、ベレジナ河の西岸に陣地を構築し、退路を絶たれた事を知ったのでした。
ナポレオンは、この恐るべき報告を聞いた途端、困惑と絶望の色を浮かべ、黙然とその場に座り込んだと云われています。
そして1ヶ月が経過した10月13日、この日、ナポレオンを驚かせる事件が発生しました。
続く・・・

モスクワ制圧
◎運命のロシア遠征
1812年5月、ロシア遠征が始まり、ナポレオンの兵力は60万、その総てがフランス兵では無く、24万はフランスの属国、同盟国から動員した兵員で、最初から士気は高く在りませんでした。
ナポレオンが率いる大陸軍が、ニーメン川を渡りロシアの領土に侵入した時の兵力は47万5千。
ナポレオン軍はロシア軍を捕捉する為に猛スピードで行軍を行い、一日60キロの距離を、30kgの装備を背負って行いました。
6月ですが、当時既に猛暑を迎え、この行軍速度に追従できない兵士が次々に脱落していきましたが、その兵士達を見捨てて行軍が続きます。
最初の二日間で5万人の兵士が脱落したと伝えられます。
ロシア軍は、一旦は国境近くに兵力を集中しますが、ナポレオン軍が迫ると退却を開始します。
ロシアの兵力は約20万、倍以上のナポレオン軍に正面から挑んで勝てる訳も無く、逃げ出したのですが、ナポレオン軍は、追跡を続けます。
しかし、ロシア軍は退却する際に、畑などを焼き払う焦土作戦を展開し、ナポレオン軍は食糧を現地調達できません。
又、ロシア農民も協力的では無く、今回のナポレオン軍は解放軍などではなく、侵略軍だと見抜かれていますから、以前のイタリア民衆の様にフランス軍に好意的では在りませんでした。
8月、スモレンスクに到達した時には、ナポレオン軍の兵力は15万5千に減少しています。
この時点で、一度も戦闘らしい戦闘は無く、飢えと疲労と逃亡で激減した結果でした。
9月、後退を続けたロシア軍は、首都モスクワの手前ボロディノで、初めて本格的な会戦を行います首都防衛の為なのですが、結果的に敗走する事と成り、モスクワを放棄して更に東に退却してしまいます。
この時、ロシア皇帝からモスクワ市民迄、総てが避難しました。
9月14日、ナポレオン軍は無人となったモスクワに入城します。
ナポレオンが11万の将兵を引き連れて、モスクワに進駐した時、街の中は殆ども抜けの空で、僅かの残っている人間は、動かすことの出来ない、病人、負傷者だけでした。
当時30万人を数えた大部分の市民は、食料、牛馬、馬車、更に芸術品や貴重な品々を移動可能なものは全てを伴って退却した後であり、間髪をいれず、市内十数か所から、一斉に火の手が上がり、モスクワは三日三晩燃え続け、四日目に降りだした雨の為に漸く鎮火したものの、市内の7割は灰燼に帰しました。
ロシア人による、焦土作戦の成果でした。
この結果、フランス軍将兵の食糧や宿舎にも苦労する始末でしたが、敵国ロシアの首都(実際の首都はサンクトペテルブルグ)を制圧した事は事実で、ナポレオン軍の勝利でした。
ナポレオンはモスクワから、北方に退去したロシア皇帝に降伏勧告の文書を送ります。
外交交渉が全く進展しないまま、モスクワで待機を続け、9月30日、一つの報告が、ナポレオンの本営に壊滅的な報告をもたらします。
ルーマニアで、トルコ軍と交戦していると信じていた、ロシア軍精鋭5万が、モスクワの西方640kmの地点に到達し、フランス軍の補給線を遮断、ベレジナ河の西岸に陣地を構築し、退路を絶たれた事を知ったのでした。
ナポレオンは、この恐るべき報告を聞いた途端、困惑と絶望の色を浮かべ、黙然とその場に座り込んだと云われています。
そして1ヶ月が経過した10月13日、この日、ナポレオンを驚かせる事件が発生しました。
続く・・・
スポンサーサイト
コメント