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2012/06/18

人類の軌跡その405:ナポレオンの生涯⑭

<ナポレオン・ボナパルトその⑭>

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「ナポレオン万歳!」

 1815年2月24日、ナポレオンは側近を引き連れて、7隻の舟でエルバ島を脱出しました。
向かう先はフランス南海岸、ナポレオン脱出のニュースは直ぐにパリに伝えられ、ルイ18世は、上陸するナポレオンを逮捕する為に、軍隊を南仏に派遣します。
軍隊が待ち構えている中を、ナポレオンは上陸するのですが、ナポレオンに「栄光あるフランスの兵士諸君、余は帰ってきた。供に、フランスの栄光を取り戻そう」と言われれば、逮捕するどころか、ナポレオンの指揮下に入ってしまうのです。
ルイ18世は、次々と軍隊を差し向けるのですが、ナポレオンは、彼等を皆自分の味方にして、パリに向かって進軍し、ルイ18世は逃亡し、3月、ナポレオンはパリに帰還、再び皇帝の座に返り咲きます。

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Battle of Waterloo

◎ワーテルローの戦い

 此れに対応して、イギリス、プロイセン等により連合軍が組織され、1815年6月ワーテルローで、ナポレオンとの最後の戦いが行われました。

 ナポレオン率いるフランス軍の兵力は約10万、対する連合国はイギリス軍6万8千とプロイセン軍4万5千、総司令官はイギリスのウェリントン将軍です。
この最後の決戦で、ナポレオンは敗退しました。

 ワーテルローでフランス軍とイギリス軍が激突したのが6月18日、実はその二日前の6月16日に、リニーで、フランス軍とプロイセン軍が戦いました。
この時は、フランス軍が勝利し、プロイセン軍は麦畑の中を散り散りになって敗走し、ナポレオンは3万3千の別働隊をグルーシー将軍に指揮させてプロイセン軍を殲滅するため追撃させました。
一昔前のプロイセン軍ならば、一旦散り散りになれば、兵士は何処かへ逃亡します。
しかし、プロイセン改革を経て、プロイセン軍も変わりました。
逃げた兵士達は、再び指揮官の下に集結して、整然と退却を始めます。

 一方、グルーシー将軍は、プロイセン軍を捕捉する事が出来ませんでした。

 6月18日、ワーテルローで、フランス軍主力とイギリス軍が戦闘を開始した時、グルーシー将軍の別働隊は、帰還しておらず、戦いはフランス軍優勢で進むのですが、グルーシー将軍の3万3千が、今ここに帰ってくれば一気に決着がつくと、ナポレオンは待ち続けました。
ところが、夕方にワーテルローに現れた軍団は、敗走はずのプロイセン軍で、形勢は一気に逆転し、結局フランス軍は惨敗、グルーシー将軍の別働隊は、とうとう現れないままでした。

 この敗北で、ナポレオンは再び退位し、再び流刑に成ります。
今回は、大西洋の絶海の孤島セント・へレナ島に流され、その際同行を許されたのは12名の従者のみで、イギリスによる厳重な監視が行われました。
これ以後、ナポレオンは、一日中島の中を歩き回り、自分の生涯を従者に話して暮らし、流刑の僅か6年後、1821年に52歳で死亡します。
病死ですが、イギリス人に毒を盛られた説が有力です。

 死後、従者がナポレオンの回想録を出版し、この回想録が発端と成って、ナポレオン英雄伝説が広く行き渡る様になりました。

続く・・・
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コメント

非公開コメント

No title

はじめましてみっちゃんともうします。
ナポレオンについてあまり知らなかったのですが。すごいカリスマ性があったんですね。
勉強になりました。
今後も更新楽しみにしています。