人類の軌跡その407:ナポレオンの生涯⑯
<ナポレオン・ボナパルト番外編その②>

Ludwig van Beethoven1770年12月16日~1827年3月26日
◎余談
ベートーヴェンはナポレオンと同じ時代を生きた人です。
生まれはドイツのボン、1770年、家系は、祖父の代から続く音楽家一家ですが、身分は平民、幼い頃から天才ぶりを発揮して、やがてオーストリアの都ウィーンに出て演奏家、作曲家として活躍します。
ウィーンは、当時も現在も音楽活動の盛んな処ですが、オーストリアの貴族達が、音楽を愛好して音楽家達の資金的援助を与えていた為でした。
当時の一流音楽家は、貴族の為に演奏し、作曲活動を行っていました。
ウィーンに出てきたベートーヴェンは、最初ハイドンの弟子に成りますが、ハイドンはハンガリーの大貴族エステルハージ侯爵家の宮廷楽団長でした。
ベートーヴェンが、本当に弟子入りを希望したのはモーツァルトでしたが、モーツァルトは、奇行が多く、貴族社会に受け入れられず極貧のなかで死んでいます。
自分の才能に自信のあるベートーヴェンは、貴族に媚び諂う事を嫌います。
更に、オーストリアの貴族達も、時代の変化を感じ始めており、フランスで、平民達が革命を起こした様に、オーストリアでも革命が起きるかもしれません。
その結果、貴族階級と謂えども、平民を以前の様に一方的に見くだす事はしませんでした。
モーツァルトとベートーヴェンの運命の違いは、この時代の変化に起因していると思われます。
ベートーヴェンの指南したハイドンは、晩年イギリスに渡り演奏活動を行い、大成功をおさめます。イギリスでは、市民が入場料を払って演奏会を聞きに来る時代が訪れはじめており、ハイドンは、貴族社会の援助無しに自立した、最初の音楽家と成りました。
ベートーヴェンが活躍した時代は、ヨーロッパが貴族社会から市民社会へと大きく変化する、当に変わり目だったのです。
ベートーヴェンは、貴族社会に否定的な考えを持ち、ナポレオンが、占領地の封建制度を打ち壊していくのを見て、その働きに同調します。
ナポレオンに心酔するベートーヴェンは、彼をテーマに交響曲を作曲します。
題名は「ボナパルト」、この曲が、完成した時に、ウィーンに居るベートーヴェンの許にニュースが届きました。
ナポレオンが皇帝に即位したのですが、それを聞いて、ベートーヴェンは激怒します。
本心から貴族社会を否定する人間が、皇帝の身分に就く事件に、ベートーヴェンは、ナポレオンに騙されていたのだと悟とります。
「あの男も俗物だった!」と叫んで、完成したばかりの楽譜を取り出して、題名の「ボナパルト」と書いてある箇所を、塗りつぶしました。
更には、塗りつぶした表紙を、引きちぎって、ゴミ箱に放り込みます。
幸いにして、楽譜そのものは捨てられませんでしたから、私達はこの曲を聴く事ができます。
ベートーヴェンが、新たに付けた題名は、「一偉人の追憶を称える為の英雄交響曲」、一般には、交響曲第三番「英雄」と呼ばれています。
実際に、後にナポレオンがウィーン迄攻め込んできます。
フランス軍がウィーンに射ち込む砲撃の音が響き、城壁の傍にある弟の家に避難していたベートーヴェンは、枕で頭を抱えて怒鳴り続けました。
「ナポレオンの馬鹿野郎、俺の耳が壊れるじゃないか!」。
この時、既にベートーヴェンの耳は可也悪くなっていたのですが、思想的にも、自分の耳にとっても、ナポレオンはベートーヴェンに、許し難い人物に成っていました。
ナポレオンの生涯・終わり・・・

Ludwig van Beethoven1770年12月16日~1827年3月26日
◎余談
ベートーヴェンはナポレオンと同じ時代を生きた人です。
生まれはドイツのボン、1770年、家系は、祖父の代から続く音楽家一家ですが、身分は平民、幼い頃から天才ぶりを発揮して、やがてオーストリアの都ウィーンに出て演奏家、作曲家として活躍します。
ウィーンは、当時も現在も音楽活動の盛んな処ですが、オーストリアの貴族達が、音楽を愛好して音楽家達の資金的援助を与えていた為でした。
当時の一流音楽家は、貴族の為に演奏し、作曲活動を行っていました。
ウィーンに出てきたベートーヴェンは、最初ハイドンの弟子に成りますが、ハイドンはハンガリーの大貴族エステルハージ侯爵家の宮廷楽団長でした。
ベートーヴェンが、本当に弟子入りを希望したのはモーツァルトでしたが、モーツァルトは、奇行が多く、貴族社会に受け入れられず極貧のなかで死んでいます。
自分の才能に自信のあるベートーヴェンは、貴族に媚び諂う事を嫌います。
更に、オーストリアの貴族達も、時代の変化を感じ始めており、フランスで、平民達が革命を起こした様に、オーストリアでも革命が起きるかもしれません。
その結果、貴族階級と謂えども、平民を以前の様に一方的に見くだす事はしませんでした。
モーツァルトとベートーヴェンの運命の違いは、この時代の変化に起因していると思われます。
ベートーヴェンの指南したハイドンは、晩年イギリスに渡り演奏活動を行い、大成功をおさめます。イギリスでは、市民が入場料を払って演奏会を聞きに来る時代が訪れはじめており、ハイドンは、貴族社会の援助無しに自立した、最初の音楽家と成りました。
ベートーヴェンが活躍した時代は、ヨーロッパが貴族社会から市民社会へと大きく変化する、当に変わり目だったのです。
ベートーヴェンは、貴族社会に否定的な考えを持ち、ナポレオンが、占領地の封建制度を打ち壊していくのを見て、その働きに同調します。
ナポレオンに心酔するベートーヴェンは、彼をテーマに交響曲を作曲します。
題名は「ボナパルト」、この曲が、完成した時に、ウィーンに居るベートーヴェンの許にニュースが届きました。
ナポレオンが皇帝に即位したのですが、それを聞いて、ベートーヴェンは激怒します。
本心から貴族社会を否定する人間が、皇帝の身分に就く事件に、ベートーヴェンは、ナポレオンに騙されていたのだと悟とります。
「あの男も俗物だった!」と叫んで、完成したばかりの楽譜を取り出して、題名の「ボナパルト」と書いてある箇所を、塗りつぶしました。
更には、塗りつぶした表紙を、引きちぎって、ゴミ箱に放り込みます。
幸いにして、楽譜そのものは捨てられませんでしたから、私達はこの曲を聴く事ができます。
ベートーヴェンが、新たに付けた題名は、「一偉人の追憶を称える為の英雄交響曲」、一般には、交響曲第三番「英雄」と呼ばれています。
実際に、後にナポレオンがウィーン迄攻め込んできます。
フランス軍がウィーンに射ち込む砲撃の音が響き、城壁の傍にある弟の家に避難していたベートーヴェンは、枕で頭を抱えて怒鳴り続けました。
「ナポレオンの馬鹿野郎、俺の耳が壊れるじゃないか!」。
この時、既にベートーヴェンの耳は可也悪くなっていたのですが、思想的にも、自分の耳にとっても、ナポレオンはベートーヴェンに、許し難い人物に成っていました。
ナポレオンの生涯・終わり・・・
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