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2012/06/21

人類の軌跡その408:ナポレオン以後のヨーロッパ①

<ウィーン体制その①>

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ウィーン会議

◎ウィーン体制の成立

 ナポレオンがライプツィヒの戦いに敗れ退位した後、1814年9月からウィーン会議が開かれました。
ナポレオンによって強制的に変更された国境線や、各国の政治体制を、今後どの様に維持変更するのか、ナポレオン後のヨーロッパ秩序を話し合う為の会議です。

 会議を主催したのは、オーストリアの外務大臣メッテルニヒ。
ヨーロッパ各国の代表がウィーンに集まり各国とも、少しでも自国に有利な条件で会議を進めようと必死です。
お互いの利害が衝突して、議事はなかなか進展しません。
進展しませんが、参集している人物は、各国の貴族階級ばかりなので、夜になると華やかな舞踏会が開かれて、彼らは毎晩踊っていました。
これが、「会議は踊る、されど進まず」の言葉が生まれた根源です。
ウィーン会議は、結局翌年の6月まで続きますが、ナポレオンがエルバ島を脱出した時も、ウィーン会議は開催中でした。

 会議の中心となったのは、主催者であるオーストリアのメッテルニヒ、フランスの代表タレーラン、ロシアは皇帝アレクサンドル1世、イギリス代表カスルレー。

 メッテルニヒは、オーストリアの名門貴族出身、超保守的な考えの持ち主で、フランス革命や、革命が目指した自由や平等を嫌悪します。
フランス革命からナポレオンの時代にかけて、ヨーロッパ全体に広がった自由主義的な考えを徹底的に押さえつけ、ヨーロッパ全体を、貴族階級が権力を握る昔の体制に戻そうと考えていました。

 ロシア皇帝アレクサンドル1世は、ロシア遠征の失敗でナポレオンは没落したのですから、英雄扱いです。
実際には、ロシアの冬の寒さに敗れたのであって、アレクサンドル1世が、大活躍をした訳では在りません。

 会議のなかで、一番立場が悪いのがフランスです。
ヨーロッパを大混乱させたのはフランスであると指摘された場合、返す言葉は無く、フランス領土割譲、多額の賠償金支払等、各国から要求されても文句を言えない立場です。

 フランス代表タレーランは、政治的能力は抜群で、名門貴族出身。
フランス革命期には、三部会や国民議会の議員で、ナポレオン時代には外務大臣でした。
そして、ナポレオン没落後は、ルイ18世の下で、フランス代表としてウィーン会議に出席しています。
政治体制が変わっても、それに上手く順応して、常に政治の中枢に居つづけた人物です。
「変節と嘘と汚職の天才」「冷徹で偉大な現実主義政治家」等と呼ばれていますが、外交官としては褒め言葉と云えるかも知れません。

続く・・・

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