人類の軌跡その409:ナポレオン以後のヨーロッパ②
<ウィーン体制その②>

Klemens von Metternich1773年5月15日- 1859年6月11日
◎ウィーン体制の成立②
タレーランは、フランスを擁護する為に「正統主義」を持ち出し、フランス革命以前のヨーロッパの姿が「正統」、全てを革命前の状態に戻そうと主張します。
従って国境線も、革命前の状態に戻し、フランスの領土は減らさず、賠償金も支払わず、との論理を展開します。
フランスは、他のヨーロッパ諸国に多くの被害を与えが、タレーランはこの様に答えます。
「フランスも被害者です。悪いのはフランスではなくて、革命なのです。革命によって、国王ルイ16世一家は殺されました。私達、フランス貴族も特権を奪われ、多くの土地や財産を奪われました。皆さん方と同じ、被害者なのです。悪いのは、革命であり、市民階級なのです。」
此の理論構成に他国の代表者達も、タレーランの「正統主義」を受け入れます。
フランス、オーストリア、ロシア等々、国家間の利害の対立はあるのですが、ウィーン会議の出席者達は、「ヨーロッパ全体の貴族階級」と「ヨーロッパ全体の市民階級」の対立の方を、より重大な問題として受け止めたわけです。
フランス革命の様な革命が、再びヨーロッパの何れかで発生した場合、国家間の利害の対立を越えて、市民階級を押さえつける為に、貴族階級全体で協力し合う事を取り決め様と云う事なのです。
この様な視点では、タレーランの言う「フランスも被害者」という主張も受け入れられるのです。
タレーランは、フランスを守る事に成功しました。
「正統主義」と並んで、大国による「勢力均衡」が、ウィーン会議のもう一つの基本原則になりました。
オーストリア、ロシア、プロイセン等の大国の利益が優先され、小国の領土が分割され、その際に、突出した力を持つ国が出現しないように大国間の「勢力均衡」が図られました。
「正統主義」という原則の一方で、結局は、強い国が得をし、弱い国が損をしたのです。
◎会議の主な決定事項
1、フランスでは、「正統主義」の立場から、ブルボン王朝の復活が認められ、ルイ16世の弟、ルイ18世が即位しました。
2、ドイツでは、ナポレオンによるライン同盟が解体され、新たにドイツ連邦が結成された。
35の君主国と4つの自由市から構成される連邦で、統一国家では無くプロイセン、オーストリアも、ドイツ連邦に含まれています。
3、ロシアは、ポーランドとフィンランドを事実上支配して、勢力を拡大。
4、オーストリアは北イタリアに領土を拡大。
5、イギリスは、セイロン島とケープ植民地の領有を認められます。
イギリスは、ヨーロッパで勢力を拡大する事よりも、アジアやアフリカに目を向けている事が判ります。
ヨーロッパ諸国よりも、一歩先に進んでいます。
以上の様に新たな国際秩序が構築され、これを維持する為の同盟が結ばれます。
その一つが、神聖同盟、ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱で結成されたもので、正確には国家間の同盟ではなく、各国君主どうしの盟約です。
君主どうし協力し合って、革命を防ぐ事が趣旨でした。
二つ目が、四国同盟、イギリス、オーストリア、プロイセン、ロシアの間で結ばれた軍事同盟です。
後にフランスも加わって、五国同盟となります。
軍事同盟は、必ず仮想敵を設定します。
四国同盟の仮想敵は、何処かと云う問題ですが、この場合、仮想敵は、全ヨーロッパの市民階級です。
そして、市民階級の求める自由主義。
これ以後、ヨーロッパの何処かで革命運動や自由主義の運動が起こると、四国同盟が軍隊を出動して弾圧する事に成りました。
続く・・・

Klemens von Metternich1773年5月15日- 1859年6月11日
◎ウィーン体制の成立②
タレーランは、フランスを擁護する為に「正統主義」を持ち出し、フランス革命以前のヨーロッパの姿が「正統」、全てを革命前の状態に戻そうと主張します。
従って国境線も、革命前の状態に戻し、フランスの領土は減らさず、賠償金も支払わず、との論理を展開します。
フランスは、他のヨーロッパ諸国に多くの被害を与えが、タレーランはこの様に答えます。
「フランスも被害者です。悪いのはフランスではなくて、革命なのです。革命によって、国王ルイ16世一家は殺されました。私達、フランス貴族も特権を奪われ、多くの土地や財産を奪われました。皆さん方と同じ、被害者なのです。悪いのは、革命であり、市民階級なのです。」
此の理論構成に他国の代表者達も、タレーランの「正統主義」を受け入れます。
フランス、オーストリア、ロシア等々、国家間の利害の対立はあるのですが、ウィーン会議の出席者達は、「ヨーロッパ全体の貴族階級」と「ヨーロッパ全体の市民階級」の対立の方を、より重大な問題として受け止めたわけです。
フランス革命の様な革命が、再びヨーロッパの何れかで発生した場合、国家間の利害の対立を越えて、市民階級を押さえつける為に、貴族階級全体で協力し合う事を取り決め様と云う事なのです。
この様な視点では、タレーランの言う「フランスも被害者」という主張も受け入れられるのです。
タレーランは、フランスを守る事に成功しました。
「正統主義」と並んで、大国による「勢力均衡」が、ウィーン会議のもう一つの基本原則になりました。
オーストリア、ロシア、プロイセン等の大国の利益が優先され、小国の領土が分割され、その際に、突出した力を持つ国が出現しないように大国間の「勢力均衡」が図られました。
「正統主義」という原則の一方で、結局は、強い国が得をし、弱い国が損をしたのです。
◎会議の主な決定事項
1、フランスでは、「正統主義」の立場から、ブルボン王朝の復活が認められ、ルイ16世の弟、ルイ18世が即位しました。
2、ドイツでは、ナポレオンによるライン同盟が解体され、新たにドイツ連邦が結成された。
35の君主国と4つの自由市から構成される連邦で、統一国家では無くプロイセン、オーストリアも、ドイツ連邦に含まれています。
3、ロシアは、ポーランドとフィンランドを事実上支配して、勢力を拡大。
4、オーストリアは北イタリアに領土を拡大。
5、イギリスは、セイロン島とケープ植民地の領有を認められます。
イギリスは、ヨーロッパで勢力を拡大する事よりも、アジアやアフリカに目を向けている事が判ります。
ヨーロッパ諸国よりも、一歩先に進んでいます。
以上の様に新たな国際秩序が構築され、これを維持する為の同盟が結ばれます。
その一つが、神聖同盟、ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱で結成されたもので、正確には国家間の同盟ではなく、各国君主どうしの盟約です。
君主どうし協力し合って、革命を防ぐ事が趣旨でした。
二つ目が、四国同盟、イギリス、オーストリア、プロイセン、ロシアの間で結ばれた軍事同盟です。
後にフランスも加わって、五国同盟となります。
軍事同盟は、必ず仮想敵を設定します。
四国同盟の仮想敵は、何処かと云う問題ですが、この場合、仮想敵は、全ヨーロッパの市民階級です。
そして、市民階級の求める自由主義。
これ以後、ヨーロッパの何処かで革命運動や自由主義の運動が起こると、四国同盟が軍隊を出動して弾圧する事に成りました。
続く・・・
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