2012/06/23

人類の軌跡その410:ナポレオン以後のヨーロッパ③

<ウィーン体制その③>

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デカブリストの乱(12月党員の乱)

◎革命の第一波(1820年代の革命)

 ナポレオンは没落しましたが、ヨーロッパの人々は、彼によって一度は自由を味わってしまいました。
ウィーン体制は、それを力で抑圧しようとする体制ですから、当然、ウィーン体制に反発して、自由や民族独立を求める運動が起こってきます。

 1820年代を中心に自由主義運動の大きな波があります。

 最も早い時期に発生した運動が、1817年のドイツのブルシェンシャフト運動(ドイツ学生連合結社)。
ドイツ各地の大学生達が組合を組織し、自由とドイツの統一を求めた運動です。
オーストリアのメッテルニヒが中心となって、この運動は弾圧されました。

 1820年にはスペイン立憲革命が発生します。
ナポレオンからの独立戦争を戦っていた自由主義者達が、反動的な政策をとるスペイン王に反対して、自由主義的憲法を認めさせた事件です。
しかし、国王が神聖同盟に援軍を要請して、出動してきたフランス軍に弾圧されました。

 同じく1820年、イタリアではカルボナリの反乱が発生します。
カルボナリは「炭焼き党」と訳されますが、イタリアの自由主義者の秘密結社です。
このカルボナリが、政治的自由を要求して反乱を起こしますが、スペイン立憲革命に刺激されて、一時期ナポリで自由主義的革命政府をつくることに成功します。
オーストリア軍の介入によって弾圧されます。

 1825年、ロシアでデカブリストの乱。
此の反乱は、ロシア軍の自由主義的将校による反乱で、ロシアの将校は、貴族階級です。
なぜ、これが自由主義者なのでしょう。
貴族階級は自由主義に反対するのが普通ですが、これは、彼等が軍隊を率いる将校である事に理由が在ります。
ロシア軍は、ナポレオンとの戦争で、常に敗北していました。
ナポレオンのロシア遠征では最後には勝利を治めますが、実際には、ロシア軍は侵入してきたナポレオン軍から敗走を続け、冬の寒さと飢えがナポレオン軍を負かしたのでした。

 自国の軍隊が弱く、連戦連負は、将校としては非常に悔しく、一部の貴族将校達は、ロシア軍を強くする為の方策を真剣に考えました。
そのお手本になったのがプロイセンで、プロイセン改革により、プロイセン軍は僅かの時間で見違える様に近代化され精鋭と成りました。
農奴に自由を与えて、兵士に愛国心を持たせなければ軍隊は強くできないというのが、彼らの結論でした。
その為には、ロシアの政治に自由主義を取り入れ、立憲政治を行い、農奴を解放すべきだ、と考えたのです。
しかし、ロシアの政治は皇帝による専制政治の為、自分達の考えを実行するには反乱しかなかったのです。
この反乱は、直ぐに別の部隊によって鎮圧されます。

 1820年代の自由主義的運動はすべて失敗に終わるのですが、ひとつだけ成功した運動があります。
ギリシアの独立運動が其れで、ギリシアはオスマン帝国の支配下に在りましたが、ここで民族独立運動が起き、オスマン帝国に対して利権獲得や領土的野心をもつイギリス、フランス、ロシアの援助を得て、ギリシアの独立運動は成功しました。
ウィーン体制の本流とは外れる事件ですが、ギリシアは、ヨーロッパ文明の源流で、当時のヨーロッパでこの事件は、関心を集めました。

続く・・・
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