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2012/06/25

人類の軌跡その411:ナポレオン以後のヨーロッパ④

<ウィーン体制その④>

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Louis-Philippe Ier 1773年10月6日 - 1850年8月26日

◎革命の第二波(1830年の諸革命)

 ウィーン体制のもとで、ヨーロッパ諸国の自由主義は、抑圧されたのですが、フランス本国は如何なる状況なのでしょう。

 ナポレオンがワーテルローで敗北し、セント・へレナ島に流刑された後、ブルボン家のルイ18世が、再び王位に就きました。
しかし、ブルボン朝が復活しても、総ての状況をフランス革命以前の状態に戻す事は不可能です。
革命やナポレオン時代を経て、フランスの経済も人々の意識も大きく変化しています。
ルイ18世の下での政治形態は立憲王政、革命の成果である法の前の平等や所有権の不可侵等の原則は、そのまま認められました。
但し、この時期に実施された制限選挙では、有権者数は人口3千万人のうち9万人、人口の0.3%にすぎませんでした。
広い土地を持つ貴族と、一握りの上層市民による政治が行われていたのです。

やがて、ルイ18世が崩御し、1824年、王の弟シャルル10世が即位しました。
この人物は、極端に反動的な思想の持ち主で、有権者の数を更に減らし、アンシャン=レジームを復活させようと考えていました。

 シャルル10世の反動的な政治は、自由主義者との対立を激化させ、更に、経済不況や凶作が重なり、民衆の暴動が頻発するように成りました。
緊張が高まる中、1830年、シャルル10世は、議会を解散、言論統制強化、選挙権制限を企てます。これに対して、7月、パリの民衆が武装蜂起し、民衆を鎮圧する筈の軍隊の一部が、民衆側に寝返ってしまう程、王に対する反感は強かったのです。
シャルル10世は退位に追い込まれ、ウィーン体制後、初めて市民の革命運動が成功し、この革命を七月革命と云います

 上層市民階級は、フランス革命の時の様に、下層市民が権力を握り恐怖政治が行われる事を恐れました。
上層市民は、銀行家等、莫大な財産を持つ市民で、彼らは、シャルル10世の政治には反対ですが、徹底的な革命も望みません。
自分達だけが、権力を掌握して革命を終結させようと考えました。
 
共和政を求める市民も多く存在しましたが、組織化されておらず、七月革命の流動的な政治状況のなかで、次の政権の主導約を果たす事が出来ませんでした。
その結果、上層市民階級は、自分達の権力を認める新しい王を即位させ、革命を終結させます。

 この人物が、オルレアン家のルイ=フィリップなのです。

続く・・・

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