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2012/06/26

人類の軌跡その412:ナポレオン以後のヨーロッパ⑤

<ウィーン体制その⑤>

Révolution_de_1830_-_Combat_devant_lhôtel_de_ville_-_28.07.1830
七月革命

◎革命の第二波(1830年の諸革命)②


 オルレアン家は、ルイ14世の弟からはじまるブルボン家の分家で、王族ですが、進歩的な家風を持ち、代々自由主義に理解が在り、ルイ・フィリップの父親は、フランス革命の時、国民公会の議員としてルイ16世の処刑に賛成しています。
ルイ・フィリップも、ジャコバン派に所属していた経歴の持ち主で、自由主義に理解が在り、シャルル10世を批判する自由主義者達の集会に、自分の屋敷の庭園を開放する事も在り、王族では在りますが、自由主義者には人望が有りました。

 ルイ・フィリップも、オルレアン家が長年望んでいた王位を手中に治める事が出来、喜んで王位に就きました。

 七月革命で成立したフランスの政治体制を「七月王政」と呼びます。

 七月革命は、シャルル10世を退位させる事には成功しましたが、新しい王を即位させて終わりました。
上層市民階級が権力を掌握した事が、この革命の成果で、有権者の数は、9万人から17万に増加しました。

◎七月革命の影響

 フランス七月革命の成功は、ウィーン体制の下で抑圧されていた、ヨーロッパ各国の自由主義運動に影響を与え、各地で革命運動が起こりました。

 1831年、ウィーン会議の結果、オランダに併合されていたベルギーで独立運動がおこり、フランスやイギリスの支持を受けて独立達成。

 同じく1831年、ポーランドで独立運動がおこりますが、ロシア軍の出動で鎮圧され、失敗に終わりました。

 因みに、ポーランド出身の作曲家ショパンは、この時二十歳。
音楽活動の為ウィーンに滞在しており、独立運動のニュースを聞き、自分も運動に参加したいと考えたのですが、「おまえは音楽に専念しろ、独立運動は俺達に任せろ」と云う父親の手紙で、帰国を思い留まります。
その後、ショパンはパリに向かう旅の途中のシュツットガルトで、ワルシャワがロシア軍によって陥落したと云うニュースを知ります。
自分の友人達が革命運動に参加して、ロシア軍に殺されたかもしれないと考えると、居ても立ってもいられない気持ちに成り、怒りと、絶望と、悲しみと、後悔の混ぜ合わさった感情のまま、パリに着いて作曲したのが、エチュード「革命」と伝えられています。

 同年、ドイツとイタリアで立憲政治運動がおこりますが、これもオーストリアの鎮圧で失敗します。

 イタリアでは、もうひとつ、マッツィーニを指導者に政治結社「青年イタリア」が組織されました。
この組織は、イタリア統一を目指して、この後長く活動を続ける事になります。
 
 この時期のイタリアは、まだ中世さながらに小国に分裂したままで、「青年イタリア」の活動は、イタリアに統一国家、国民国家を形成しようとする運動が、徐々に本格化していきます。
この統一運動を妨害し続けるのがオーストリアなのです。
イタリアを自国の影響下に置いておきたいオーストリアは、イタリアが小国分裂状態に放置した方が統治に都合が良く、此の為、統一イタリアの誕生は、先の事に成ります。

続く・・・
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