人類の軌跡その421:産業革命と社会運動⑦
<二月革命その③>

◎二月革命
労働者階級と社会主義思想が発展しつつある中、19世紀前半のヨーロッパの政治状況は貴族階級による反動的政治が続いています。
ところが、1848年フランスで二月革命が勃発します。
フランスでは、1830年の七月革命以後、銀行家等の少数の大資本家と国王ルイ・フィリップによる七月王政が続いていました。
有権者は人口の1%で、資本家の大多数である中小資本家は政権に参加する事ができず、労働者も当然参政権はなく、当初から政府に対する不満は大きなものでした。
1846年には凶作、1847年には不況と、国民生活が悪化する中で、参政権拡大を要求する運動も活発化するのですが、これに対して、首相ギゾーは、「働け、そして金持ちになれ。そうすれば有権者になれるだろう。」等の発言を繰り返しました。
ついに、1848年2月、パリ市民が武装蜂起し、国王ルイ・フィリップは退位、亡命しました。
国王亡命後、臨時政府が組織され、この政府は、名前の通り臨時の政府です。
政府の中核は、参政権拡大を求めていた資本家層ですが、二月革命を成功に導いた民衆・労働者階級の勢力も無視できず、社会主義者のルイ・ブランを政府に参加させる等、労働者階級に対する配慮も在りました。
革命直後は、どのグループが政府の主導権を握るか流動的で、寄り合い所帯の政府が作られたのです。
ただ、もやは、国王は不要であると云う点では、意見は一致し、二月革命以後のフランスの政治体制が、第二共和政と成ります。
臨時政府は、自由主義的政策を推進しました。
男子普通選挙、出版言論の自由を認め、ルイ・ブランが中心と成り、10時間労働制を制定し労働時間の短縮も行いました。
臨時政府の施策の中で、最も有名なものが、国立作業所の設立で、ルイ・ブランが国立工場の経営というプランを持っていた事は、既に記述しましたが、これを具体化したわけです。
ところが、いきなり工場を建設できる訳は無く、国立作業所では、登録した労働者に公共土木作業をさせて賃金を支払いました。
現実には、失業対策事業になってしまい、失業者の間で、国立作業所に登録すれば仕事が貰えると云う評判が広がり、登録者は急激に増加しました。
3月には1500人、4月には6万6000人、5月には10万人に迄膨れ上がり、10万人も労働者が集まっても、それに見合う仕事は存在しませんが、政府は仕事がなくても登録者には、賃金を支払いました。
当然、これは政府の財政を圧迫し、6月、臨時政府は国立作業所の廃止を決定します。
此の頃には、ルイ・ブランは政府の中で完全に孤立していました。
いよいよ臨時政府での中で、資本家が主導権を握る事がはっきりして来ます。
労働者の要求を切り捨てる臨時政府の方針に反対して、パリ民衆が武装蜂起を起こしました。
これを六月蜂起と云い、臨時政府は、軍隊を出動させて、徹底的にこれを鎮圧しました。
死者、逮捕者共に1万人以上と云われ、ルイ・ブランはイギリスに亡命し、10時間労働制も廃止されてしまいました。
労働者の政治的要求は潰されましたが、フランスは、二月革命によって、貴族の時代が完全に終わりを告げ、産業資本家など中産市民階級を中心とする政治体制が定着していきます。
此の後、12月に大統領選挙が実施され、臨時政府はその役割を終えました。
この大統領選挙で当選した人物が、ルイ・ナポレオン、名前から推測されますが、ナポレオン1世の親族で、甥に当たる人物です。
ルイ・ナポレオンは1848年12月に大統領に当選して以後、1870年迄フランスを支配する事に成ります。
続く・・・

◎二月革命
労働者階級と社会主義思想が発展しつつある中、19世紀前半のヨーロッパの政治状況は貴族階級による反動的政治が続いています。
ところが、1848年フランスで二月革命が勃発します。
フランスでは、1830年の七月革命以後、銀行家等の少数の大資本家と国王ルイ・フィリップによる七月王政が続いていました。
有権者は人口の1%で、資本家の大多数である中小資本家は政権に参加する事ができず、労働者も当然参政権はなく、当初から政府に対する不満は大きなものでした。
1846年には凶作、1847年には不況と、国民生活が悪化する中で、参政権拡大を要求する運動も活発化するのですが、これに対して、首相ギゾーは、「働け、そして金持ちになれ。そうすれば有権者になれるだろう。」等の発言を繰り返しました。
ついに、1848年2月、パリ市民が武装蜂起し、国王ルイ・フィリップは退位、亡命しました。
国王亡命後、臨時政府が組織され、この政府は、名前の通り臨時の政府です。
政府の中核は、参政権拡大を求めていた資本家層ですが、二月革命を成功に導いた民衆・労働者階級の勢力も無視できず、社会主義者のルイ・ブランを政府に参加させる等、労働者階級に対する配慮も在りました。
革命直後は、どのグループが政府の主導権を握るか流動的で、寄り合い所帯の政府が作られたのです。
ただ、もやは、国王は不要であると云う点では、意見は一致し、二月革命以後のフランスの政治体制が、第二共和政と成ります。
臨時政府は、自由主義的政策を推進しました。
男子普通選挙、出版言論の自由を認め、ルイ・ブランが中心と成り、10時間労働制を制定し労働時間の短縮も行いました。
臨時政府の施策の中で、最も有名なものが、国立作業所の設立で、ルイ・ブランが国立工場の経営というプランを持っていた事は、既に記述しましたが、これを具体化したわけです。
ところが、いきなり工場を建設できる訳は無く、国立作業所では、登録した労働者に公共土木作業をさせて賃金を支払いました。
現実には、失業対策事業になってしまい、失業者の間で、国立作業所に登録すれば仕事が貰えると云う評判が広がり、登録者は急激に増加しました。
3月には1500人、4月には6万6000人、5月には10万人に迄膨れ上がり、10万人も労働者が集まっても、それに見合う仕事は存在しませんが、政府は仕事がなくても登録者には、賃金を支払いました。
当然、これは政府の財政を圧迫し、6月、臨時政府は国立作業所の廃止を決定します。
此の頃には、ルイ・ブランは政府の中で完全に孤立していました。
いよいよ臨時政府での中で、資本家が主導権を握る事がはっきりして来ます。
労働者の要求を切り捨てる臨時政府の方針に反対して、パリ民衆が武装蜂起を起こしました。
これを六月蜂起と云い、臨時政府は、軍隊を出動させて、徹底的にこれを鎮圧しました。
死者、逮捕者共に1万人以上と云われ、ルイ・ブランはイギリスに亡命し、10時間労働制も廃止されてしまいました。
労働者の政治的要求は潰されましたが、フランスは、二月革命によって、貴族の時代が完全に終わりを告げ、産業資本家など中産市民階級を中心とする政治体制が定着していきます。
此の後、12月に大統領選挙が実施され、臨時政府はその役割を終えました。
この大統領選挙で当選した人物が、ルイ・ナポレオン、名前から推測されますが、ナポレオン1世の親族で、甥に当たる人物です。
ルイ・ナポレオンは1848年12月に大統領に当選して以後、1870年迄フランスを支配する事に成ります。
続く・・・
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