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2012/07/10

人類の軌跡その423:産業革命と社会運動⑨

<二月革命その⑤>

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フランクフルト国民議会

◎フランクフルト国民議会

 ドイツでは、1815年、ウィーン会議によってドイツ連邦が結成されます。
これは、統一国家ではなく,35の領邦国家と4つの都市による連邦で、事実上ドイツは分裂状態です。
当時、イギリス、フランスは、中央集権的な国家体制を、既に形成し政治経済両面で発展をしていました。
分裂状態のままでは、ますますドイツが遅れをとる事は、明白です。
従って、ドイツ民族による統一ドイツを建設する事は、多くのドイツ知識人の共通理解でした。
1848年3月、ドイツ各地で自由主義民族主義運動が盛り上がる中で、各領邦の代表がフランクフルトに集まり、統一についての議会が開かれたのです。

 グリム童話で有名なグリム兄弟の兄、ヤコブ=グリムも、議員に選出されてフランクフルトに来ています。
グリム童話を単なる子供向けの童話と思っている方も多いと思いますが、グリム兄弟には別の動機が在り、彼等は、政治的には分裂しているが、ドイツ民族は単一である事を広く訴えたかったのです。その為に、ドイツ各地の民話を集めて、民族の財産として出版しました。
彼らの志は、ドイツで知らぬ者は存在せず、グリムの兄は議員に成っています。
因みに、彼らの本業は大学教授でした。

 さて、ドイツを統一する為に一番単純簡単な方法は、ドイツ連邦の中で有力な領邦の君主をドイツ皇帝に推戴して、そのもとにドイツをひとつにまとめる事です。
統一ドイツの中心に成る事が可能な候補の領邦国家が二つ存在しています。
その一つがオーストリアで、もう一方がプロイセンです。
オーストリア中心の統一ドイツを目指す思想が大ドイツ主義、プロイセン中心を小ドイツ主義と云い、この二つがフランクフルト国民議会では対立しました。

 オーストリアは確かに大国で、ハプスブルグ家は、嘗て神聖ローマ皇帝でもあった名門中の名門です。
ただ、問題点も多く、オーストリアの領土は広大で、ハンガリーやベーメンなど、ドイツ人以外の民族の住む地域も支配しており、これらの地域は、ドイツ連邦の領域には含まれていないのです。
オーストリアは多民族国家を形成しており、ドイツ連邦に含まれている部分と、そうでない部分が存在していました。
以上の事実から、ドイツ民族国家を建設するにあたり、オーストリアを中心にするには無理が有ったのです。

 最終的に、小ドイツ主義が勝利して、フランクフルト国民議会は、プロイセン国王をドイツ皇帝に推戴しますが、プロイセン王は、此れを拒否します。
自由主義者が集まった議会の推戴で、皇帝に即位しても、国民議会の制約を受け、その様な皇帝は、プロイセン王にとっては何の魅力も在りませんでした。
こうして、プロイセン国王に拒否され、フランクフルト国民議会は解散し、プロイセンはこれから約20年後、軍事力によってドイツを統一する事になります。

2月革命終わり・・・
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