人類の軌跡その428:統一国家の成立⑤
<ドイツ統一その②>

ヴィルヘルム1世とビスマルク
◎ドイツの統一②
プロイセンは軍備を増強しますが、それでもオーストリアに勝てるか否かは、ビスマルクにとって心配でした。
その様な時、1864年にドイツ連邦とデンマークの間で、領土紛争が起こります。
シュレスヴィヒ・ホルシュタイン両地方の帰属を巡って、デンマークとドイツ連邦諸国が開戦しました。此れをデンマーク戦争と云います。
デンマーク戦争が勃発すると、ビスマルクはオーストリアを誘って共同出兵し、デンマークからシュレスヴィヒ・ホルシュタインを割譲し、プロイセンとオーストリアで分割統治を主張します。
両国が協力すればデンマークは敵では無く、オーストリアは、要請に従って出兵しました。
結果は、戦争に勝利して、シュレスヴィヒはプロイセンが、ホルシュタインはオーストリアが獲得します。
ビスマルクが、デンマーク戦争でオーストリアに出兵を要請した真の目的は、ドイツ統一の為にオーストリアと将来戦うのは確実ですが。その前にオーストリア軍の実力を知っておきたかったのです。戦争は博打ではありません。
勝算が皆目検討がつかない場合に、開戦では、首相として失格と思います。
勝利を確実にする為に、プロイセンは敵を探りました。
共同作戦を行えば、手に取る様にオーストリア軍の内部事情が一目瞭然で、装備、指揮系統、指揮官の能力、兵士の士気、これ等が総て判ってしまう。
そのための共同出兵でした。
オーストリアは、ビスマルクの姦計を知らず、領土を拡大し、その間にビスマルクは、オーストリア軍の実態を掌握しました。
装備から用兵まで、ナポレオン戦争時代から殆ど進歩しておらず、これなら勝利できると考えたのです。
終に1866年、オーストリアと戦争に踏み切ります。
普墺戦争の始まりですが、僅か7週間で勝負がつき、プロイセンの圧勝でした。
この戦争で、プロイセン軍は実戦で初めて後装式ライフル銃を使用しました。
弾丸を銃の後ろから装填する方式を後装式と云い、腹ばいになったまま弾丸を装填できるので、攻撃には有利です。
後装式ライフル銃の存在は、ヨーロッパ各国に知られているのですが、実戦に使えるか疑問視されており、どの国も正式装備に成っていませんでした。
プロイセンだけが、正式に軍隊に採用していたのですが、一方のオーストリア軍は先込め式を使用していました。
新兵器を次々に取り入れるのがプロイセン軍の強さの源で、鉄道や電信等もフル活用して戦争にあたりました。
単なる軍事力の違いでは無く、工業力や国の姿勢が根本的に違っていたのです。
勝利の後、プロイセンはドイツ連邦を解体、翌1867年、オーストリアを排除して北ドイツ連邦を結成しました。
この北ドイツ連邦には、22の領邦が参加した連邦で、事実上プロイセンが支配します。
オーストリアに近い立場をとる南ドイツの幾つかの領邦は、これに加わっておらず、まだ完全なドイツ統一とは言えません。
又、北ドイツ連邦も連邦国家の為、各領邦国家が残存し、軍事的な圧力で統一を進めるプロイセンの方法に納得している訳では無く、北ドイツ連邦の中身は、真の統一を欠いていました。
続く・・・

ヴィルヘルム1世とビスマルク
◎ドイツの統一②
プロイセンは軍備を増強しますが、それでもオーストリアに勝てるか否かは、ビスマルクにとって心配でした。
その様な時、1864年にドイツ連邦とデンマークの間で、領土紛争が起こります。
シュレスヴィヒ・ホルシュタイン両地方の帰属を巡って、デンマークとドイツ連邦諸国が開戦しました。此れをデンマーク戦争と云います。
デンマーク戦争が勃発すると、ビスマルクはオーストリアを誘って共同出兵し、デンマークからシュレスヴィヒ・ホルシュタインを割譲し、プロイセンとオーストリアで分割統治を主張します。
両国が協力すればデンマークは敵では無く、オーストリアは、要請に従って出兵しました。
結果は、戦争に勝利して、シュレスヴィヒはプロイセンが、ホルシュタインはオーストリアが獲得します。
ビスマルクが、デンマーク戦争でオーストリアに出兵を要請した真の目的は、ドイツ統一の為にオーストリアと将来戦うのは確実ですが。その前にオーストリア軍の実力を知っておきたかったのです。戦争は博打ではありません。
勝算が皆目検討がつかない場合に、開戦では、首相として失格と思います。
勝利を確実にする為に、プロイセンは敵を探りました。
共同作戦を行えば、手に取る様にオーストリア軍の内部事情が一目瞭然で、装備、指揮系統、指揮官の能力、兵士の士気、これ等が総て判ってしまう。
そのための共同出兵でした。
オーストリアは、ビスマルクの姦計を知らず、領土を拡大し、その間にビスマルクは、オーストリア軍の実態を掌握しました。
装備から用兵まで、ナポレオン戦争時代から殆ど進歩しておらず、これなら勝利できると考えたのです。
終に1866年、オーストリアと戦争に踏み切ります。
普墺戦争の始まりですが、僅か7週間で勝負がつき、プロイセンの圧勝でした。
この戦争で、プロイセン軍は実戦で初めて後装式ライフル銃を使用しました。
弾丸を銃の後ろから装填する方式を後装式と云い、腹ばいになったまま弾丸を装填できるので、攻撃には有利です。
後装式ライフル銃の存在は、ヨーロッパ各国に知られているのですが、実戦に使えるか疑問視されており、どの国も正式装備に成っていませんでした。
プロイセンだけが、正式に軍隊に採用していたのですが、一方のオーストリア軍は先込め式を使用していました。
新兵器を次々に取り入れるのがプロイセン軍の強さの源で、鉄道や電信等もフル活用して戦争にあたりました。
単なる軍事力の違いでは無く、工業力や国の姿勢が根本的に違っていたのです。
勝利の後、プロイセンはドイツ連邦を解体、翌1867年、オーストリアを排除して北ドイツ連邦を結成しました。
この北ドイツ連邦には、22の領邦が参加した連邦で、事実上プロイセンが支配します。
オーストリアに近い立場をとる南ドイツの幾つかの領邦は、これに加わっておらず、まだ完全なドイツ統一とは言えません。
又、北ドイツ連邦も連邦国家の為、各領邦国家が残存し、軍事的な圧力で統一を進めるプロイセンの方法に納得している訳では無く、北ドイツ連邦の中身は、真の統一を欠いていました。
続く・・・
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