人類の軌跡その429:統一国家の成立⑥
<ドイツ統一その③>

ヴェルサイユ宮殿に於ける戴冠式
◎真の統一に向けて
北ドイツ連邦を名実共に統一し、更に北ドイツ連邦に参加していない南ドイツの領邦を取り込む為に、ビスマルクはもう一度戦争を考えます。
より強大な外部の敵と戦う事によって、不統一な内部をまとめようと云う考えです。
その相手がフランスなのです。
フランスは、ナポレオン3世の統治下で、ビスマルクはフランスと開戦する口実を作る為に、外交関係に摩擦を生じさせました。
ビスマルクは、国王の電報の改竄まで行い、ドイツ全土にフランスに対する敵愾心を煽ります。
終にナポレオン3世は、ビスマルクの挑発に乗り、1870年、フランスとドイツの戦争が始まります。ドイツとの戦争ですが、実質的にドイツの中心はプロイセンですから、この戦争を普仏戦争と呼びます。
戦争が始まると、バイエルン等北ドイツ連邦に参加していない領邦もドイツ=プロイセン軍と共に戦闘に参加しました。
戦争自体は、ドイツ軍の連戦連勝でフランス領内に攻め込み、ナポレオン3世は、1世同様自ら指揮を執る為に前線に向かいます。
しかしながら、ナポレオン3世には、将軍としての経験も1世の様なカリスマも無く、セダンで、ドイツ軍に包囲されて、8万のフランス軍と共に降伏し、捕虜になってしまいました。
皇帝自身が捕虜に成り、フランス軍は為す術が無く、ドイツ軍はそのまま進軍を続けてパリを包囲し、1871年1月、ナポレオン3世が捕虜に成った後パリで成立したフランスの臨時政府は、ドイツに降伏し、普仏戦争は終結しました。
僅か半年間の戦争でしたが、この戦争でドイツはプロイセンを中心に結束し、1871年1月、ドイツ帝国の成立が宣言されました。
プロイセン国王ヴィルヘルム1世が、初代ドイツ皇帝に即位し、その戴冠式が行われたのが、ヴェルサイユ宮殿です。
ヴェルサイユはフランス・ブルボン朝の宮殿で在り、伝統あるフランスの宮殿で戴冠式を行う事自体、フランス人にとってはこの上のない侮辱です。
即位式が挙行された時、ドイツ軍はまだパリ包囲中で、戦争が継続しているのです。
この戴冠式の絵は有名で、左側の壇上に立っているのがヴィルヘルム1世、右側に白い服を着て目立つ人物が帝国宰相になったビスマルク、臣下でありながら、絵全体の中心に居ます。
彼の果たした役割と立場を象徴していると思います。
ドイツは、戦争に勝利しましたが、フランスを支配し統治する計画は当初から存在していません。飽く迄、戦争を通じてドイツ統一を完成する事が目的ですから、講和条約を結び、戦後処理が終了すると、フランスから撤退しました。
講和条約で、ドイツはフランスから多額の賠償金と、アルザス・ロレーヌ地方を獲得し、アルザス・ロレーヌを奪われた事は、フランスのドイツに対する深い恨みの元となり、この地方の帰属問題は第二次大戦迄、長く尾を引く事に成りました。
ドイツ帝国の政治制度は立憲君主制、皇帝の権限は大きく、それに比較して、議会の権限はあまり大きく無く、連邦制は維持され、各領邦は残地されています。
連邦制の伝統は根強く、現在でもドイツの正式名称はドイツ「連邦」共和国といい、かつての領邦である州の権限が強いようです。
帝国政府の要職は、ユンカー身分の者が占めました。
ユンカーは、プロイセンの地主貴族で、ビスマルクもユンカー出身、彼等がドイツ帝国を事実上仕切っているのです。
オーストリアは、ドイツ帝国から分離され、全く別の国家になります。
今でもオーストリアはドイツとは別の国ですが、オーストリア人はドイツ民族で言語もドイツ語なのです。
続く・・・

ヴェルサイユ宮殿に於ける戴冠式
◎真の統一に向けて
北ドイツ連邦を名実共に統一し、更に北ドイツ連邦に参加していない南ドイツの領邦を取り込む為に、ビスマルクはもう一度戦争を考えます。
より強大な外部の敵と戦う事によって、不統一な内部をまとめようと云う考えです。
その相手がフランスなのです。
フランスは、ナポレオン3世の統治下で、ビスマルクはフランスと開戦する口実を作る為に、外交関係に摩擦を生じさせました。
ビスマルクは、国王の電報の改竄まで行い、ドイツ全土にフランスに対する敵愾心を煽ります。
終にナポレオン3世は、ビスマルクの挑発に乗り、1870年、フランスとドイツの戦争が始まります。ドイツとの戦争ですが、実質的にドイツの中心はプロイセンですから、この戦争を普仏戦争と呼びます。
戦争が始まると、バイエルン等北ドイツ連邦に参加していない領邦もドイツ=プロイセン軍と共に戦闘に参加しました。
戦争自体は、ドイツ軍の連戦連勝でフランス領内に攻め込み、ナポレオン3世は、1世同様自ら指揮を執る為に前線に向かいます。
しかしながら、ナポレオン3世には、将軍としての経験も1世の様なカリスマも無く、セダンで、ドイツ軍に包囲されて、8万のフランス軍と共に降伏し、捕虜になってしまいました。
皇帝自身が捕虜に成り、フランス軍は為す術が無く、ドイツ軍はそのまま進軍を続けてパリを包囲し、1871年1月、ナポレオン3世が捕虜に成った後パリで成立したフランスの臨時政府は、ドイツに降伏し、普仏戦争は終結しました。
僅か半年間の戦争でしたが、この戦争でドイツはプロイセンを中心に結束し、1871年1月、ドイツ帝国の成立が宣言されました。
プロイセン国王ヴィルヘルム1世が、初代ドイツ皇帝に即位し、その戴冠式が行われたのが、ヴェルサイユ宮殿です。
ヴェルサイユはフランス・ブルボン朝の宮殿で在り、伝統あるフランスの宮殿で戴冠式を行う事自体、フランス人にとってはこの上のない侮辱です。
即位式が挙行された時、ドイツ軍はまだパリ包囲中で、戦争が継続しているのです。
この戴冠式の絵は有名で、左側の壇上に立っているのがヴィルヘルム1世、右側に白い服を着て目立つ人物が帝国宰相になったビスマルク、臣下でありながら、絵全体の中心に居ます。
彼の果たした役割と立場を象徴していると思います。
ドイツは、戦争に勝利しましたが、フランスを支配し統治する計画は当初から存在していません。飽く迄、戦争を通じてドイツ統一を完成する事が目的ですから、講和条約を結び、戦後処理が終了すると、フランスから撤退しました。
講和条約で、ドイツはフランスから多額の賠償金と、アルザス・ロレーヌ地方を獲得し、アルザス・ロレーヌを奪われた事は、フランスのドイツに対する深い恨みの元となり、この地方の帰属問題は第二次大戦迄、長く尾を引く事に成りました。
ドイツ帝国の政治制度は立憲君主制、皇帝の権限は大きく、それに比較して、議会の権限はあまり大きく無く、連邦制は維持され、各領邦は残地されています。
連邦制の伝統は根強く、現在でもドイツの正式名称はドイツ「連邦」共和国といい、かつての領邦である州の権限が強いようです。
帝国政府の要職は、ユンカー身分の者が占めました。
ユンカーは、プロイセンの地主貴族で、ビスマルクもユンカー出身、彼等がドイツ帝国を事実上仕切っているのです。
オーストリアは、ドイツ帝国から分離され、全く別の国家になります。
今でもオーストリアはドイツとは別の国ですが、オーストリア人はドイツ民族で言語もドイツ語なのです。
続く・・・
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