2012/07/18

人類の軌跡その430:統一国家の成立⑦

<ドイツ統一その④>

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伊藤博文 

◎同時代の出来事

 1860年代は、ドイツだけではなく、幾つかの国でも大きな転換期を迎えます。
1、1861年には、自由主義的改革を目指すロシアで農奴解放令発布。
2、1861年に、イタリアが統一されイタリア王国が成立。
3、アメリカ合衆国で南北戦争が始まるのも1861年。
4、日本で徳川幕府が大政奉還により倒れ、明治政府が成立したのが1868年。
5、1871年にドイツ帝国成立。

 1860年代に、中央集権的近代国家を目指した国は、やがて帝国主義国として他国に勢力を伸ばし、それに遅れた国や地域は植民地か半植民地に成りました。

 明治新政府は、国創りの参考にする為に、さかんに欧米の制度を吸収します。
明治憲法を制定する為に、伊藤博文が一番参考にした国がドイツで、国家建設の時期も殆ど同じ、封建的な分裂状態から中央集権国家を形成する状況も良く似ており、参考にしたのは当然でした。
伊藤はヨーロッパ各国の制度を調査するのですが、イギリスは議会政治が成熟していて一から始める日本の参考にならず、フランスは人民の力が強く手本にするには危険だと考えました。
一方ドイツは、状況も似ており、皇帝の権限が強い立憲君主制なので、天皇を中心とする国家を考えていた伊藤の構想に適合したのでしょう。

 伊藤はビスマルクにも面会し、このヨーロッパを代表する大政治家にかなり影響された様です。
伊藤が中心になって作った憲法は1889年、大日本帝国憲法として発布されます。

 統一後のビスマルクの課題は、ドイツ帝国の内政の整備で、文化闘争、社会主義鎮圧法、社会政策の3つです。
 
 文化闘争は、1871年から80年迄続くビスマルクによるカトリック勢力への弾圧の事を云います。南ドイツに多いカトリック教徒が、中央党を結成し、ビスマルクの政策に抵抗したのが原因です。

 社会主義鎮圧法、1878年に制定され、社会主義運動や労働運動を弾圧する法律です。
社会主義政党である、ドイツ社会主義労働者党が勢力を伸ばして事に対抗した法律です。
 
 政策は、労働者など民衆の不満を和らげる為に行われた政策、具体的には、災害保険、疾病保険、養老保険等を実施しました。

 統一以後のドイツは急速に工業化がすすみ、イギリス、フランスに続く大国に成長していきました。

◎オーストリアの動向

 1866年の普墺戦争で敗北したオーストリアは、北ドイツ連邦から排除され、翌1867年にオーストリア=ハンガリー帝国として国を再編成します。
 
 ハンガリーに住むマジャール人は、以前からオーストリアからの独立を求めており、このマジャール人の要求を受け入れる形で、オーストリアはマジャール人の自治を認めハンガリー王国が成立します。
但し、ハンガリー国王はオーストリア皇帝が兼ねる事に成ります。
これでハンガリーはオーストリアと対等の国と成り、国名がオーストリア=ハンガリー帝国と成りました。

 オーストリア支配下には、現在のチェコやスロヴァキア等スラブ系民族が住む地域が数多く存在し、これ等のスラブ系住民が、マジャール人政策に不満を持つのも当然で、これ以後、スラブ系民族の自治権要求が活発化します。
スラブ系民族は、オスマン帝国にも多く住んでおり、国境を越えてスラブ人どうしの連帯意識、政治意識が高まってきました。
これを、汎=スラブ主義と云います。

 スラブ人の国であるロシアが、この汎=スラブ主義を利用して、自国の影響力をオーストリアやオスマン帝国に強めようと考えるのは、南下政策からして当然の成り行きでした。
この汎=スラブ主義がやがてヨーロッパ政治の重大問題に発展していく事になります。

ドイツの統一終わり・・・

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