fc2ブログ
2012/07/19

人類の軌跡その431:南下政策とツァーリズム①

<19世紀中頃のロシアその①>

prise-de-malakoff_convert_20120719195430.jpg
クリミア戦争 開戦 (1854年03月28日)

◎クリミア戦争

 ロシアは、19世紀半ばになっても、ツァーリズムと呼ばれる皇帝の専制政治が続き、自由主義思想は厳しく弾圧されていました。
ウィーン体制崩壊後のヨーロッパの政治の流れから、完全に取り残されているのですが、広大な領土と、強大な陸軍力でヨーロッパの国際関係の中で大きな位置を持ち続けます。

 ロシアは18世紀中頃から、南下政策と呼ばれる外交戦略を立て、ロシアの領土は広大ですが、内陸部が多く、僅かな海岸線は緯度が高い上、冬季には港が皆凍ってしまうのです。
海外貿易を推進する上でも、冬でも凍らない不凍港が是非とも欲しかったのです。
その為南へ南へと領土を拡大し、ロシアの南に位置する国がオスマン帝国です。
16世紀の最盛期には、東地中海を取り巻く大帝国として、ヨーロッパ諸国に脅威を与えていましたが、17世紀後半から衰退を始めます。

 19世紀に入ると、ギリシアが独立、エジプトも自立、そして、何度かの戦争で、ロシアに北方の領土を少しずつ削り取られていきます。
衰退のオスマン帝国に照準を合わせて、ロシア、イギリス、フランスがこの地域に勢力を拡大する機会を伺い始めます。
オスマン帝国を巡るヨーロッパ列国の利権争いが、19世紀の国際紛争の焦点で、これを東方問題と呼びます。

 さて、ロシアが不凍港を求めて南下政策を進めながら、目標としたのが黒海です。
オスマン帝国に勢力が存在する頃、黒海の周囲は総てオスマン帝国領でしたが、18世紀末エカチェリーナ2世の時代に、ロシアは黒海北岸のクリミア半島を獲得しました。
黒海は冬でも凍りません。
これで、不凍港を手に入れたのですが、大きな問題が横たわっています。
黒海にロシア船を浮かべる事ができても、地中海へ出なければ、外洋に出る事が出来ません。
ところが、黒海と地中海の間には、ボスフォラス海峡とダーダネルス海峡が存在しています。
ボスフォラス海峡は、オスマン帝国の首都イスタンブールに面する海で、重要な軍事的要所でも在り、オスマン帝国にとって宿敵ロシアの艦船が、この海峡を通過する為にはオスマン帝国から海峡の通航権を得なければ成りませんでした。

 ロシアは18世紀末以降もオスマン帝国と紛争を繰り返し、その度に両海峡の通航権を与えられ、再度停止されたりしています。
1829年以後、ロシアは商船の通航権を得て、小麦を大量に輸出するように成りますが、通航できるのは商船だけで、軍艦は許可されていませんでした。

 ところが、1831年から33年迄と、1839年から1840年の二回に渡ってエジプト・トルコ戦争が勃発し、この時にオスマン帝国は、ロシアに軍艦の通航を許可します。
エジプトは元よりオスマン帝国の領土ですが、ナポレオンのフランス軍に一時占領された後、総督のムハンマド・アリーが、オスマン帝国から事実上独立し、更に領土拡大を画策しておこした戦争が、エジプト・トルコ戦争です。

続く・・・
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!