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2012/07/20

人類の軌跡その432:南下政策とツァーリズム②

<19世紀中頃のロシアその②>

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セヴァストーポリ包囲戦

◎クリミア戦争②

 エジプトは、連戦連勝、その背景にはフランスが居り、フランスは、エジプトを援助して利権を拡大しようという魂胆が在ります。
オスマン帝国は、これに対抗するため、ロシアに海峡の軍艦通航権を与えて味方側に付けようと考えました。

 エジプトが勝利を収め、フランス、オスマン帝国が勝てばロシアが、この地域に勢力を拡大する事になり、その様な事態を恐れたイギリスが、この戦争に介入してきます。
当時イギリスの軍事力は最強で、外交手腕も抜群でしたから、最後はイギリス主導で戦争の決着がつけられたのでした。
 
 内容として、
1、エジプトは占領した領土をオスマン帝国に返還。
2、代償として、ムハンマド・アリーの一族がエジプト総督の地位を世襲する事を認める。

 事実上のエジプト王国で、オスマン帝国に対しては、ロシアに与えた海峡の軍艦通航権を取り消させ、ロシアの南下政策はイギリスによって挫折したのです。
この間、1838年、イギリスはオスマン帝国と不平等条約を結び、南下政策を企てるロシアと利害が激しく対立する様に成りました。

 1853年から56年にかけて、ロシアとイギリス、フランス、オスマン帝国の間で発生した戦争がクリミア戦争です。
戦争のきっかけは、フランスがオスマン帝国から聖地イェルサレムの管理権を得たのに対抗して、ロシアがオスマン帝国に、オスマン帝国領土内のギリシア正教徒保護権を要求して、拒否された為でした。
 
 オスマン帝国は、現在のルーマニア、ブルガリア、セルビア等があるバルカン半島を支配していました。
この地域は、キリスト教のギリシア正教の信者が多数存在し、ロシアはギリシア正教徒の保護者である事を自認しており、保護権を要求しました。
保護権を前面に出すことで、バルカン半島への勢力拡大を画策し、オスマン帝国としては、ロシアが自国の領土に干渉してくる事は、当然拒否します。
ロシアの南下を阻止したいイギリスとフランスが、オスマン帝国と同盟を結び参戦します。
又、イタリア半島の小国サルディニア王国も、英仏側に立って参戦しました。

 主戦場が黒海に突き出たクリミア半島、特に、クリミア半島にあるロシアのセヴァストーポリ要塞の攻防戦は両軍共に多数の死傷者を出した激戦として有名です。

 この戦争は、産業革命によって工業化を進めつつあるイギリス・フランスと、遅れをとったロシアとの力の違いをはっきりと世界に示しました。
ロシアは兵力100万、しかも戦場は、自国若しくはその周辺、英仏は合わせて兵力7万、しかも、本国から遠く離れた戦場です。
これだけ見れば、ロシアが圧倒的に優勢な筈ですが、実際に戦闘が始まるとロシアは大苦戦を強いられ、1856年パリ条約で事実上敗北を認めました。
ロシア軍の装備はナポレオン戦争の時からほとんど進歩が無く、ロシア軍の大砲の着弾距離は、英仏軍の半分しかなかったと云います。
技術力の違いを見せ付けられ、更に、ロシアは戦場に武器弾薬糧食、兵員を輸送する為、荷馬車を使用しました。
道路は舗装されておらず、雨でも降ると道は泥濘で馬車は進めません。

 思う様に、戦場に物資が輸送できないロシア軍に対し、一方の英仏は、蒸気船で本国から物資を輸送し、港から戦場迄鉄道を敷設して、前線に武器弾薬を輸送しました。
部隊の駐屯地には水道も設置し、工業力の違いが格段に現れたのです。
本国から遠い英仏軍の方が、輸送が円滑、兵士への補給は順調なのは驚異です。

 又、ロシア軍の一般兵士や輸送の人夫は、農奴が徴発されて行われ、戦争に勝敗は彼らには無意味でした。
早く終わって無事に故国に帰りたいだけ、一方の英仏は、既に市民社会が成立している為、自分達が払った税金で行われている戦争の成り行きに注目しています。
イギリスの新聞社は、戦場に特派員を派遣して、毎日の戦況を報道しましたが、此れは、世界初の従軍記者です。
最新のニュースは、蒸気船や発明されて間もない電信で伝えられ、現代の報道の原型が、クリミア戦争で既に現れています。

続く・・・
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