人類の軌跡その433:南下政策とツァーリズム③
<19世紀中頃のロシアその③>

アレクサンドル2世載冠式
◎ロシアの改革
クリミア戦争の敗北は、ロシアにとって大打撃でした。
クリミア戦争を始めた皇帝ニコライ1世は、戦争中に亡くなっていますが、死因は薬の飲みすぎと云われており、戦況を苦にして、事実上の自殺ではないかと考えられています。
ニコライ1世は、19歳の時にイギリスを旅行して議会を見学していますが、市民達が議論しながら法律を決めていく様子を見て嫌悪感を抱いたと云います。
ニコライ1世の後継者が、アレクサンドル2世です。
圧倒的な兵力と地理的優位にも関わらず「なぜ、ロシアは敗れたのか?」
結論は、イギリスとロシアでは、政治経済制度が全く異なり、イギリスは、既に工業社会に入っているが、ロシアではまだ農奴制が続いているのです。
アレクサンドル2世の自由主義的改革が始まります。
因みに、クリミア戦争が始まった1853年は、日本にペリーが来航した年で、黒船来航で、幕末の争乱と明治維新が始まる時期も状況もそっくりです。
幕末の志士達が「何か手を打たねば、日本は滅びる」と考えたのと同じように、アレクサンドル2世も「何か手を打たねば」と思ったのでしょう。
アレクサンドル2世の自由主義的改革の中心が、1861年の農奴解放令で、当時ロシアには2000万の農奴が存在し、彼らが自由な市民と成り、ロシア国民としての自覚を持つことで、ロシアは生まれ変わる事ができると皇帝は考えました。
処が、実際に農奴を支配している貴族階層は、本気で農奴を解放する気は無く、形だけの解放になります。
身分は自由に成っても、土地は貴族の所有物ですから、大きな変化は無く、農奴時代の年貢よりも高い小作料を払わされて、反対に生活が苦しくなりました。
農奴解放と云われて期待していただけに、農民の失望と怒りは大きく、農民一揆が続発します。
数字を挙げれば1862年に884件、1863年には509件の農民蜂起が発生し、皇帝としては、自由を与えにも係らず農民は何故蜂起するのか、と逆に農民に対する不信感が増すだけでした。
更に、1863年には、アレクサンドル2世の自由主義的政策に刺激されて、ポーランドで独立反乱が起きます。
ロシア軍に鎮圧されて失敗するのですが、皇帝はこれらの経験を通じて、自由を与えれば臣民達は増長し、勝手な振る舞いをして、国を乱すだけで在り、こんな民は、やはり上から押さえつけるしかない、と考える様に成りました。
アレクサンドル2世は、自由主義的政策を放棄し、ツァーリズムと呼ばれる皇帝による専制政治を一層強化します。
しかし、西ヨーロッパの自由主義的政治体制を理想と考え、ツァーリズムに反対する知識人や学生が、当時のロシアにはある程度生まれていました。
イギリスやフランスに留学して、ロシアの後進性を肌で感じている人が結構存在していました。
知識人の事をロシアでは、インテリゲンツィアと呼びます。
この様な反体制派のインテリ達が、政治改革を目指して1870年代から80年代にかけて行った運動がナロードニキ運動で、「ヴ=ナロード(人民の中へ)」というスローガンを掲げた為にナロードニキ運動と云います。
この運動は、学生達が農村へどんどん入っていって、政治意識の遅れた農民達に啓蒙運動を行おうとする行動でした。
貧困で苦しむ農民の意識を変えなければ、ロシアは変わらないと考えたのですが、彼らの行動や考えは農民にはなかなか理解されませんでした。
農民から見れば、いきなり都会の若者が村にやってきて政治宣伝を始め、「自分で働きもしない貴族か金持ちの青年が何を言っているのか」、と冷ややかな目線は当然でした。
活動家達は、「農民よ、めざめよ、立ち上がれ、皇帝政治に反対せよ、革命だ!」と説きますが、普通の意識の農民達から見れば、とても過激で危険な事を言っているのです。
多くの農民達は、皇帝に対しては素朴な敬愛の感情を持っていたそうですから、とんでもない事を言う怪しい連中だと思ったようです。
政府によるナロードニキ運動に対する弾圧は激しく、逮捕された若者の多くがシベリアに流刑に成りました。
農民の支持を得られなかったナロードニキ運動は、80年代を過ぎると衰えていきます。
そのなかで、一部の活動家は、テロリズムに走りました。
啓蒙活動よりも、直接的暴力でツェーリズムを倒そうと考え、何度か、皇帝の暗殺未遂事件が企てられ、ついに1881年、アレクサンドル2世は、乗っていた馬車に爆弾を投げつけられて命を落としました。
しかし、皇帝を暗殺しても、次の皇帝によって専制政治は引き継がれ、何の解決にもなりませんでした。
続く・・・

アレクサンドル2世載冠式
◎ロシアの改革
クリミア戦争の敗北は、ロシアにとって大打撃でした。
クリミア戦争を始めた皇帝ニコライ1世は、戦争中に亡くなっていますが、死因は薬の飲みすぎと云われており、戦況を苦にして、事実上の自殺ではないかと考えられています。
ニコライ1世は、19歳の時にイギリスを旅行して議会を見学していますが、市民達が議論しながら法律を決めていく様子を見て嫌悪感を抱いたと云います。
ニコライ1世の後継者が、アレクサンドル2世です。
圧倒的な兵力と地理的優位にも関わらず「なぜ、ロシアは敗れたのか?」
結論は、イギリスとロシアでは、政治経済制度が全く異なり、イギリスは、既に工業社会に入っているが、ロシアではまだ農奴制が続いているのです。
アレクサンドル2世の自由主義的改革が始まります。
因みに、クリミア戦争が始まった1853年は、日本にペリーが来航した年で、黒船来航で、幕末の争乱と明治維新が始まる時期も状況もそっくりです。
幕末の志士達が「何か手を打たねば、日本は滅びる」と考えたのと同じように、アレクサンドル2世も「何か手を打たねば」と思ったのでしょう。
アレクサンドル2世の自由主義的改革の中心が、1861年の農奴解放令で、当時ロシアには2000万の農奴が存在し、彼らが自由な市民と成り、ロシア国民としての自覚を持つことで、ロシアは生まれ変わる事ができると皇帝は考えました。
処が、実際に農奴を支配している貴族階層は、本気で農奴を解放する気は無く、形だけの解放になります。
身分は自由に成っても、土地は貴族の所有物ですから、大きな変化は無く、農奴時代の年貢よりも高い小作料を払わされて、反対に生活が苦しくなりました。
農奴解放と云われて期待していただけに、農民の失望と怒りは大きく、農民一揆が続発します。
数字を挙げれば1862年に884件、1863年には509件の農民蜂起が発生し、皇帝としては、自由を与えにも係らず農民は何故蜂起するのか、と逆に農民に対する不信感が増すだけでした。
更に、1863年には、アレクサンドル2世の自由主義的政策に刺激されて、ポーランドで独立反乱が起きます。
ロシア軍に鎮圧されて失敗するのですが、皇帝はこれらの経験を通じて、自由を与えれば臣民達は増長し、勝手な振る舞いをして、国を乱すだけで在り、こんな民は、やはり上から押さえつけるしかない、と考える様に成りました。
アレクサンドル2世は、自由主義的政策を放棄し、ツァーリズムと呼ばれる皇帝による専制政治を一層強化します。
しかし、西ヨーロッパの自由主義的政治体制を理想と考え、ツァーリズムに反対する知識人や学生が、当時のロシアにはある程度生まれていました。
イギリスやフランスに留学して、ロシアの後進性を肌で感じている人が結構存在していました。
知識人の事をロシアでは、インテリゲンツィアと呼びます。
この様な反体制派のインテリ達が、政治改革を目指して1870年代から80年代にかけて行った運動がナロードニキ運動で、「ヴ=ナロード(人民の中へ)」というスローガンを掲げた為にナロードニキ運動と云います。
この運動は、学生達が農村へどんどん入っていって、政治意識の遅れた農民達に啓蒙運動を行おうとする行動でした。
貧困で苦しむ農民の意識を変えなければ、ロシアは変わらないと考えたのですが、彼らの行動や考えは農民にはなかなか理解されませんでした。
農民から見れば、いきなり都会の若者が村にやってきて政治宣伝を始め、「自分で働きもしない貴族か金持ちの青年が何を言っているのか」、と冷ややかな目線は当然でした。
活動家達は、「農民よ、めざめよ、立ち上がれ、皇帝政治に反対せよ、革命だ!」と説きますが、普通の意識の農民達から見れば、とても過激で危険な事を言っているのです。
多くの農民達は、皇帝に対しては素朴な敬愛の感情を持っていたそうですから、とんでもない事を言う怪しい連中だと思ったようです。
政府によるナロードニキ運動に対する弾圧は激しく、逮捕された若者の多くがシベリアに流刑に成りました。
農民の支持を得られなかったナロードニキ運動は、80年代を過ぎると衰えていきます。
そのなかで、一部の活動家は、テロリズムに走りました。
啓蒙活動よりも、直接的暴力でツェーリズムを倒そうと考え、何度か、皇帝の暗殺未遂事件が企てられ、ついに1881年、アレクサンドル2世は、乗っていた馬車に爆弾を投げつけられて命を落としました。
しかし、皇帝を暗殺しても、次の皇帝によって専制政治は引き継がれ、何の解決にもなりませんでした。
続く・・・
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