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2012/07/25

人類の軌跡その435:フランスの状況①

<ナポレオン3世時代のフランスその①>

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ストラスブール一揆のルイ・ナポレオン

 ルイ・ナポレオンは、ナポレオン1世の弟の子供で、大統領選挙に出馬迄は、七月王政時代に陰謀事件を二回企て、共に失敗し、イギリスで亡命生活を送っていました。
二月革命が起きるとフランスに帰って大統領選挙に立候補する迄、ルイ・ナポレオンが如何なる政治的な信条を持つ政治家なのか、殆ど知られていませんでした。
しかし、彼が立候補すると、その名前だけで当選を果たします。
ナポレオン1世の戦争で多くのフランス人が命を落とし、1世が没落する時、殆どのフランス人がそ知らぬ振りでした。
二月革命の時代は、1世の時代から既に30年以上を経過し、戦争で家族を無くした思いも薄れていいたのでしょう。
ナポレオン1世時代にフランスが、ヨーロッパ全体に号令した栄光の記憶だけが、思い出されました。

 ルイ・ナポレオンは、当選を果たしても、協力的な支持基盤が存在する訳ではなく、あまり後世の評価は高いとは言えませんが、結局20年以上も権力の座に君臨した事からも、有能な政治家だったと思います。

 1852年には、ナポレオン1世同様に国民投票によって皇帝に即位しました。
皇帝としての名前がナポレオン3世。

 政策として、資本家の為には、国内産業の育成に力を入れ、ルイ・ナポレオンの時代に、フランスの製鉄、紡績工業は大きく発展しました。
又、その成果を世界に誇示する為に1855年と1867年の二回、万国博覧会をパリで開催します。

 労働者、農民に対しては、公共慈善事業や社会政策を推進し、病院や孤児院を建設しました。
首都パリを大改造したのも有名な活動で、現在のパリの街並みはナポレオン3世によってつくられたものです。
それまでのパリは細い路地が入り組んだ迷路のような町で、上下水道も整えられず衛生状態も劣悪でしたが、なによりも市民が路地にバリケードを容易に築ける事を防ぐ事が、第一の目的と思われます。

 しかし、ナポレオン3世は、フランスの栄光を常に国民に意識させる事を念頭に置いていました。
万博の開催もその一つですが、ナポレオン1世と同様に戦争で勝利を収める事ですが、ルイ・ナポレオンは戦争の指揮を自ら行う訳では在りません。
世界の政治情勢を窺い、好機とみれば、つまり勝てそうな戦争があれば軍隊を送り込むのです。

 具体的には、ロシアと戦ったクリミア戦争(1853年~56年)、中国清朝と戦ったアロー戦争(1856年~60年)、この二つともイギリスとの連合軍でした。
インドシナ出兵(1858年)、イタリア統一戦争(1859年)。
メキシコ侵略戦争(1861年~67年)、この戦争は、メキシコ内政に干渉し、自分の傀儡をメキシコ皇帝に擁立する事を目的とした戦争ですが、失敗しルイ・ナポレオンの威信が低下する原因と成りました。
 
 更にプロイセンのビスマルクに挑発されて1870年普仏戦争を遂行しますが、この時に戦場に出向いた結果、逆に捕虜に成り退位させられました。

続く・・・

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